1890_クリスチャンが長寿を願うのは肉的か? | 子供の霊的成長に関わることについて
知識におけるキリスト教 僕が17歳で救われるまで自分の命に一切の執着がありませんでした。それは、この世界で生きることが僕にとってあまりにも苦痛だったからです。クリスチャン家庭で育ち、比較的恵まれた状態にいましたが、「知識…
キリスト教信仰
知識におけるキリスト教 僕が17歳で救われるまで自分の命に一切の執着がありませんでした。それは、この世界で生きることが僕にとってあまりにも苦痛だったからです。クリスチャン家庭で育ち、比較的恵まれた状態にいましたが、「知識…
キリスト教信仰
身体、知性、霊性の三つのバランス 昨日はクリスチャン生活を送るには身体、知性、霊性の三つのバランスをとらないといけないということを書きました。そして、そのバランスをとるのは人間には不可能であり、聖霊に導いてもらわないとで…
キリスト教信仰
人を生かすのは聖書の言葉であり、聖霊 僕は連日、知性の実を結ぶこと、特に聖書に関する知識を書籍などから吸収することは大切であると書きました。しかし、だからといって、それに偏っていくと間違いなく魂は渇いていくことでしょう。…
キリスト教信仰
心にとめなさい 昨日はこの世界で生きるためには知性の実を結ぶことも重要だということを書きました。そして、知性の実にはこの世の知識と霊的な知識があります。この世の知識はこの世界で実際的な生活をするために必要です。霊的な知識…
キリスト教信仰
霊、身体、知性 僕はこの地上における人間の存在は霊、身体、知性が密接に相互作用しあっていると信じています。そのため、霊的な領域だけでなく、健康なものを食べたり筋トレをしたり、書籍を読んだりすることも十分生活に取り入れてい…
キリスト教信仰
本家よりもいいものが生まれる YoutubeやSNSが出てきてから、コンテンツにおいてこのような現象が起こるようになったと思います。それは「本家よりもいいものが生まれる」ということです。たとえば、誰かが作詞作曲をして歌い…
キリスト教信仰
いろいろな訳 聖書は色々な訳で読んだほうがいいと言われています。それは訳によって理解や受け取り方が変わることがあるからです。もっとも原語に忠実に理解したいと思うのであれば、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語で理解する必要が…
キリスト教信仰
最後に悔い改めたら万事オッケー! 昨日は自身の経験から「最後に悔い改めたら万事オッケー!」というような信仰姿勢では真にへりくだって悔い改めることはできないということを書きました。それは、悔いることはできても「改める」こと…
キリスト教信仰
万事オッケー! キリスト教界隈ではよくこのような言葉を聞くことがあります。それは「結局、十字架で何でも赦されるやん」というような言葉です。その言葉の裏には「何をしても大丈夫、最後に悔い改めたら万事オッケー!」というような…
キリスト教信仰
筋トレ系Youtubeチャンネル 昨日に引き続き、今日も筋トレのことを書こうと思います。僕はいくつか筋トレ系Youtubeチャンネルを登録しているのですが、時々筋トレ系ユーチューバー同士がコラボすることがあります。筋トレ…
キリスト教信仰
供給が需要を生む 昔、中国で仕事をしていた時に毎日のように職場近くのマクドナルドへ行ってランチを食べていました。理由としては、不衛生な厨房で作られた油っこい中華料理を食べるよりは、むしろ振り切って大手チェーンのほうがヘル…
キリスト教信仰
神の臨在を意識 昨日は体調不良から重要な気づきを得たと書きました。そのきっかけとなったのがブラザーローレンスの書籍です。彼は「神の臨在を意識して生活すること」を実践した人でした。たとえ、祈りの時間ではなくても、日々の仕事…
キリスト教信仰
長期の体調不良 GW前から体調が悪くそのままGWに突入し今もなお体調が悪いです。病院で処方された薬を5日分ほど飲みわずかに快方に向かっていますが、倦怠感や咳が止まらないというような状態が続いています。体調を崩すと多くので…
キリスト教信仰
AGERE CONTRA(アジェイラ コントラ) 昨日はイエズス会で実践されていたAGERE CONTRA(アジェイラ コントラ)という考え方について書きました。僕はこの考え方に大変感銘を受けました。それは実際的で実践的…
キリスト教信仰
主は心を見る 今日も「主にあって変えられる」ことについて書きます。「主にあって変えられる」と書くとその主体は主にあるように思ってしまいます。変えられる側は何もしなくてもいいとさえ思ってしまいそうです。しかし、それは違うと…
キリスト教信仰
短気な性格がより強調 昨日に続きZero Anger(怒りゼロ)について書きます。何が原因なのかはわからないのですが、ここ数年、自身の短気な性格がより強くなってきているのではないか?と思うようになりました。いくつか原因が…
キリスト教信仰
主と同じ似姿に変えられる望み 昨日は「主にあって変えられる」ことに関して、下記御言を引用し、主と同じ似姿に変えられるということは怒ることに遅くあるべきであると書きました。それがZero Anger(怒りゼロ)です。 詩篇…
キリスト教信仰
表面的なぺらっぺら 僕は昨日、自己啓発によって自分を変えることと主にあって変えられることをごっちゃにしてはいけいないということを書きました。それらは現れは同じように見えるかもしれません。だから僕は自己啓発的な手法を取り入…
キリスト教信仰
自己啓発で変わること 昨日は「主にあって変えられる」と言うことについて書きました。聖書を基準として現状の自分とあるべき姿のギャップを見た時に絶望、しかし、それが絶望におわることなく、霊なる主の働きによって変えられる恵みが…
キリスト教信仰
願っていなければ変わることはない クリスチャンはすべからずイエス様からの大宣教命令を受けており溢れるばかりの愛を動機として福音宣教をします。しかし、その過程で「キリストの似姿に変えられていく」という恵みにも与ることができ…