1660_この世界のどのサービスや設備にも「主に仕えることができる」場所はない

主に仕えることができる

僕はとても怠惰で安きに流されやすい人間です。まともな自制心はもっておらず、主に制御してもらわなければ、くつわをつけないロバのごとくどこにでも行ってしまいます。だからこそ聖霊に導きが必要です。また足の灯、道の光である御言が必要です。

しかし、それだけでは不十分です。僕は怠惰で安きに流れやすく自制心もないので、「実際に神様に仕えるところ」も必要です。それは教会です。教会は素晴らしいところです。なぜなら、この世界のどのサービスや設備にも「主に仕えることができる」場所はないからです。

この地上で最も大きな祝福

正直に書けば、僕は日曜日奉仕がない週は気が抜けてしまう場合が多いです。ようはよく祈って備えることもせずに主の前に出ることがあるのです。しかし、その一方で、奉仕がある時は、こんな状態だと主に仕えることはできないと祈りに導かれます。そして、これまで多くの場合、奉仕があったからこそ、流される、主に制御してもらい、義の道を歩ませて頂いたと思っています。

逆のことを言えば、もし、教会生活もなく奉仕もなければ、僕は道を外れていた可能性が大いにあり得るのです。だから、主がご臨在くださる教会、また仕えることができる教会、また共に礼拝を捧げることができる先生、兄弟姉妹がいることはこの地上で最も大きな祝福と言っていいと思います。

自分と神様との関係

僕はペンテコステ派の教会で救われて今は福音派の教会にいます。両社は大きな教義においては一致できますが、小さな教義において一致するのは難しいと思っています。さらに礼拝に関する形式や方法など長年の習慣化されたところで一致するのも相当難しいことです。しかしだからと言って、今の教会に対してどうこう思うことは一切ありません。

なぜなら、礼拝に関して大切なのは、自分と神様との関係だからです。そして、なによりもイエス様は昨日も今日もいつまでも変わることがないお方だと信じているからです。ペンテコステ派の神様と福音派の神様は別のお方なのでしょうか?僕がペンテコステ派で体験した救いは福音派では別のものになってしまうのでしょうか?

僕が教会を愛するのは

僕は母教会をひと時もわすれず愛していますが、今行っている教会も同じように愛しています。なぜなら、僕が教会を愛するのは同じイエス様がそこにおられるからです。

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