0828_人は自分を誇っていないと思いつつも誇ってしまっていることがある

誇っていません

おそらくこれは人間なら誰でももつ人間の性質だと思うのですが、会社や社会や教会など様々なところで能力を評価されたり用いられたりすると「高ぶってしまう」ということです。「いや、私はそんなことはない」と言い張るならば、それが既に高ぶりのはじまりかもしれません。

僕自身は別に人から評価がなくても、また用いられていなくても「高ぶってしまう」からかなりやっかいだと思っています。特に自分は「選ばれている」ということを誇り出すと相当やばい状態になってしまいます。

何を誇るべきなのか

イスラエルの民族も、いわゆる選民思想によって自分たちは特別な存在だということを誇るようになりました。しかし、誇るべきは選ばれている自分ではなくて、選んでくださった神なのです。それなのに、自分は特別だと思ってしまうところに人間の弱さがあります。

選ばれた自分はどのような存在でしょうか。近づきがたい光の中におられる神からすれば、人間など塵にすぎません。実際に土塊から造られたものであり、ただ、神の息による霊によって生きているからこそキリストにあって価値があるのです。

悔い改めのチャンス

もし、自分が神の前や人の前に「何者でかある」と思ってしまうならば、それは悔い改めのチャンスです。そして、そう思ってしまうことを否定することはないと思うのです。人間は弱く高ぶりやすいものだからです。

だから、いつも主の前にへりくだって主の前に何者であるかを忘れないように日常生活を送りたいと思います。誇るべきことは救われた選ばれた用いられている自分ではなくて、救ってくださった選んでくださった用いてくださっている神のみです。

祈り

また、今自分を誇らなかったとしても、次の瞬間に誇るかもしれません。また今日誇らなかったとしても、明日誇るかもしれません。状況は刻々と変わっており、気持ちも状態も変わります。人の言葉も変わります。称賛、誉れ、栄光、富を目の前にした時に、自分を誇らずにいるには神に頼るほかないのです。

だから、今日も祈ります。主よ、僕は今誇っていなくても次の瞬間に自分を誇ってしまう者です。また今日誇っていなくても明日には自分を誇ってしまうかもしれません。どうか自分があなたの前に何者でもないことを悟らせてください。そして、救ってくださった選んでくださった用いてくださっているあなたを誇る者へと造り変えてください。

2 件のコメント

  • はじめまして。今日初めておじゃまいたしました。私はもともと長老派と呼ばれる教会に通っていましたが、福音派に変わりました。しかし、そもそもは韓国人の友人がイエス様を教えてくれて、その友達が信仰のはじまりの糸口になってくれたので、友人が帰国したのを皮切りに、さてどこに通おうかと教会を探し始めたとき、何派であろうと構わない、イエス様を知られるなら!と思っていた、ある意味無知な、そして純粋な求道者でした。しかしそれから10数年、教会生活を歩みながら、教派が何なのか分かり始め、考えを巡らせざるを得ないことが出てきました。情熱的で正直であり、信仰深くて聖書をよく読む韓国人の友人と、その友人の家でスタートした信仰生活は、悩み多かった人生からまるで大海原にイエスの漕ぐ船で漕ぎ出るような喜びと希望に満ちたものでしたが、日本の教会生活に入った途端、無数の本棚のある図書館に入ったような気分がしました。今は、図書館ではないですが、遠くに光の見える美しい洞窟にいるような感じです。今日こちらのブログを始めて拝見し、誤解を恐れずに書かせていただくなら、「バアルに屈することのなかった7000人を」主が教えてくださったように思います。そして、私もまた、かつて友人を通して豊かに与えられたように、この身を主に用いていただける器としていただきたいと心から祈りました。感謝します。また読ませてください。

  • ま さん、コメントありがとうございます!
    お証を聞けて励まされました。ありがとうございます。
    美しい洞窟の中にイエス様がおられるのが見えました。
    ま さんの祝福をお祈りいたします。

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