私は中国へ来てから、キリスト教の教派を強く意識するようになりました。
それは、全く意図せず、事情により、他教派の教会へ通うようになり、自分の所属する教派を外から、客観的に眺めることができたからです。
私の母教会は、プロテスタント系のペンテコステ運動の流れから発生した教派に属しています。他教派との交流が全くない教会で育った私は、生まれてから21歳の時に北京に留学するまで、ずっと、自分の所属する教派しか知りませんでした。
2007年に北京に留学した時は、日本人教会に通っていましたが、その教会は福音派の教会でした。これが私にとって、始めての他教派との出会いです。
まず私を驚かせたのが、福音派に属する人たちは、聖書研究に熱心で、聖書に対する知的好奇心、また、餓え渇きが非常に強く、そして何よりも、聖書の言葉に対して、絶対的な信頼を置いていたということです。
しかし、その一方で、私の愚かな主観と感覚的なものから判断するならば、ペンテコステ派と比較した際、教会活動のあらゆる面において、力に欠けている印象を受けました。何度も言いますが、これはあくまでも、私の主観的、感覚的なものから受けた印象です。
そして、そもそも、福音派とペンテコステ派をきっぱり、二つに分けて、話すこと自体が愚かであることは重々承知しています。
もちろん、福音派もペンテコステ派も、すべて人間の主張するところであり、完全や絶対はなく、どちらかが正しいとか、どちらかが真理への理解において、劣っているなどとは思いません。
私は福音派の人から多くの良い影響を受けたと思っています。私が北京で生活する中で心身とも疲れ、弱っていた時期がありました。そのような状態の中で、私はその教会の長老と呼ばれる人に、以下のような質問を投げかけました。
「聖書の言葉が信じれない時は、どうしたらいいんですか」
正直に言えば、この質問の中には、可愛そうな私を哀れんでちょうだい、こんなにかわいそうなんだから祈ってちょうだい、という甘えの思いが入っていたことは否定できません。
しかし、長老の一言は、
私の思ってもみないものでした。
彼は、少しも躊躇することなく、
「それは不信仰だ」
と断言しました。
それを聞いて、失望し、幻滅し、なんて冷たく厳しい人なんだと思った一方で、彼の言ったことももっともだとも思った。
私はクリスチャン2世ですが、真の意味において、キリストを信じるようになったのは、17歳の時、それから4年間、ずっとキリストに従うと決めて歩んできましたが、自分の信仰というものは、ペンテコステ派の主張するところの、いわゆるペンテコステ体験に依存しすぎており、どこか感覚的なものに依存しすぎていることをうすうす感じ始めていた時期でした。
神が感じれないなら、
神はいない。
霊的なものを感じれないなら、
神は共にいない。
今から思えば、これは、非常に危険な信仰態度だったと思います。それから、私の聖書に対する態度ががらっと変わりました。もし、あの時、長老がきっぱり言ってくださらなかったら、私の信仰は、今でも感覚的なものに頼り、ふらふらしていたかもしれません。
また、それまで自分の教派だけが、絶対に正しく、真理において絶対的に勝っていると、考えていた自分を改めました。そして、福音派に対する偏見や色眼鏡もなくなりました。
最後に、ペンテコステ運動について言えば、
1901年から50年代までが第一の波。
1960年から第二の波(カリスマ運動)。
1980年から第三の波。
そして、現在、第四の波と言われいるにもかかわらず、たいして、大きな動きや変化が見られていないのが、福音派とペンテコステ派の関係を近づけるというもの。
私は、お叱りを受けるのを覚悟で言いますが、ペンテコステ派が異言を語ることを教義に盛り込むのは結構だと思いますが、それを、信者に強制してはいけないと思います。聖霊のバプテスマを教義に盛り込むのは結構だと思いますが、それを、信者に強制してはいけないと思います。もし、それを強要する人がいれば、その人は使徒的教会が持っていた神のしるしや奇跡を、行ってほしいと思います。
最後に、異言を語ることやワンネス神観を持つことで、真理において他教派よりも勝っているとも思ってはいけないと思います。
それぞれの人にはそれぞれの神との関係があるからです。
「わたしが最も大事な事としてあなたがたに伝えたことは、わたし自身も受けたことであった。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりに、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」
カナンの地は今日も輝いています。