奉仕観
年をとってから自分の教会での奉仕観が結構変わりました。若かりし頃は、神の前にへりくだって祈って奉仕していたとしても、やはり力が入りすぎていたり、俺が俺が感が少なからず出ていたと思います。そして礼拝に関しては、その礼拝が恵まれるかどうかは自分の祈りのいかんにかかっているとまで思っていました。
もちろん、祈りのいかんによるところもあると思います。前提として祈る時間が長ければ長いほどいいわけではありませんが、奉仕者の姿勢や態度としていえば、許される限りは5分だけその奉仕のために祈って望むのと1時間祈って望むのとでは、やはり違うと思うのです。
自分が消えること
だから、若かりし頃は自分が礼拝の奉仕に当たっている時は必死に祈ることが多かったです。しかしながら、年を取るにつれて、力の入り方がだいぶ変わりました。肩の力が抜けるようになったと思います。そして、もちろん相変わらず祈りもって備えることは最重要項目です。しかし、その礼拝や奉仕が恵まれるのはそこに神様が恵まれたい、あるいは祝福を注がれたい方がいらっしゃるからにほかなりません。
そう思うと自分はたまたま神様に使って頂いている器にすぎないと、37歳にしてようやくわかってきました。
何をやるにも聖霊が必要
先日のブログでは教会の大掃除すらやる気がなくて祈らないとできないと書きましたが、礼拝の奉仕においても同じです。誤解を恐れずに言えば、元来の僕は教会の兄弟姉妹に対してちっとも関心がなく、この地域の救いに関して全く関心がありません。自分さえよければよく自分中心に生きたいのです。
しかしながら、聖書に学び聖霊に導かれ、イエス様が僕の中で働いてくださるなら、僕は教会の兄弟姉妹に対して深い関心が湧き、この地域の救いに関して情熱が生まれます。そして、自分ではなく神様中心に生きたいと思えるのです。
日々新しくなるもの
僕は今福音派の教会にいますが、バックグラウンドはペンテコステ派の教会にあります。そして信仰の基本はそこで学びました。ペンテコステ派が非常に強調するように結局は自分に死んで聖霊に満たされることでしか、聖書の御言のとおりに、あるいは神様の御心のとおりに生きることなどできないのです。
昔は年を取ることは、すなわち身体の劣化であり、ずっと嫌悪感すら抱いていました。しかし、身体は劣化しても、心や魂は日々新しくなります。これからは年を取ることをネガティブにとらえずに年齢にふさわしい成長ができればと望んでいます。