墓前礼拝
昨日は教会での礼拝が終わってから、墓前礼拝なるものがありました。墓前礼拝については過去も何度か書いていますので、そちらを参考にしていただけると幸いです。
墓前礼拝は屋外で賛美と説教がなされます。今年の墓前礼拝ではマイクがなく牧師先生の地声で説教がされました。僕は大自然の中で静かに語られる先生の説教を聞いて、2000年前にワープしてしまいました。
山上の説教
それは、イエス様が山上などで群衆を前に説教した光景に思いを馳せたのです。墓前礼拝には数十人しかいません。しかし、当時の山上には数百人という群衆がいたと思います。なので、少しでもざわつくとイエス様の説教を聞くことはできません。
そこは風の音、鳥の声が聞こえるほどに静かであったと想像されます。時にはイエス様の大きな声で説教をされることもあったと思いますが、イエス様は数百人の群衆に優しく語ってくださったのだと思います。
一群衆になった
そして、僕も山上の一群衆になったのです。遠くにはイエス様が見えます。イエス様は説教をされています。この時に僕は思いました。
「僕は一群衆としてイエス様の説教を聞いている。しかし、イエス様とは直接話をしていない。説教が終わってからイエス様のところに行っても群衆の取り巻きが多いのでイエス様は僕のことを相手にする暇もないだろう。」
その時に僕はイエスの名によって父が遣わしてくださった聖霊という存在に心から感謝したのです。イエス様が肉体をもっておられたなら、本当にその働きは限定的でした。もちろん、僕と接点をもつこともなかったでしょう。しかし、今や、確かに聖霊によってイエス様にお出会いすることができるのです!
群衆にいることで満足しなかった
それからこのようなことも思いました。確かに群衆はイエス様の説教を聞きました。しかし、その大部分はイエス様に出会っていなかったのではないか?ということです。イエス様に出会った人は必至で主を求め続けた人たちです。流血の女、ザアカイ、バルテマイなどです。
彼ら彼女らは群衆にいることで満足しませんでした。群衆をかき分けてでもイエス様に会いたいと思ったのです。彼ら彼女らは僕のようにこのようには思わなかったのです。
「説教が終わってからイエス様のところに行っても群衆の取り巻きが多いのでイエス様は僕のことを相手にする暇もないだろう。」
僕はイエス様に会うには改めて信仰が必要だと思いました。