サルでもわかる
ここ数か月高校数学をゼロからやり直しています。僕の数学は中学レベルなので正直、参考書を読み解くのも一苦労です。これまで何度も「サルでもわかる~」的な参考書で再チャレンジしてきましたがいずれも挫折してきました。その度にサル以下認定され、数学の苦手意識はより強くなっていくのでした。
しかし、今回は全く違います。文明の利器であるChat-GPTが非常に良い教師になってくれるので、教える相手がサル以下であっても理解するまで忍耐強く説明してくれます。特に数学という分野は学問として成立しており、AIが学習しやすい分野でもあるので、間違ったことを教えることもないので安心して教師として使えます。
「わかった」という瞬間
学ぶ過程で嬉しいことがあります。それは「わかった」という瞬間です。あの瞬間にはおそらくドーパミンかなにかの快楽物質が脳内に流れているのだと思います。ここで「知っている」と「わかっている」の間に大きな差があるのがわかります。知った瞬間にもドーパミンが放出されていると思いますが、個人的には全く別の性質だと思っています。
たとえば、「ジャズ」という言葉があります。その言葉が内包する意味のイメージは日本人なら誰でももっており、ジャズを知っていると思います。しかし、「ジャズをわかっている人」というのはそれほど多くないことがわかると思います。ジャズとは一言では決して語れない非常に奥が深い音楽ジャンルだからです。
わかるためには知識だけではだめ
これはキリスト教信仰も同じです。聖書の言葉を知っているのとわかっているのとでは全く違います。聖書の知識を学べば知ることはできます。しかし、わかるためには知識だけではだめです。なぜなら、聖書は神様そのものであり、その神様は霊的な存在なので、霊によってはじめてわかるものだからです。
それは、新約聖書時代の律法学者やパリサイ人を見ればわかります。彼らは聖書を知ってはいましたが、わかってはいなかったのです。
霊における理解こそが神の御心
では、信仰における「わかる」とはいったいどういうことなのでしょうか?それは神の御心がわかるということです。肉において聖書を読めば肉における領域でしか理解できません。しかし、霊において聖書を読めば霊において理解することができます。つまり、霊における理解こそが神の御心なのです。
僕はCSの説教の準備をする時、時々飛び上がりたくなるほど嬉しくなることがあります。それは、聖書の御言と向き合い、祈り主に近づいていく中で、主の御心がわかる時があるからです。確かに主の御心がわかった時に霊的に心に大きな喜びがやってきます。