退勤後は嬉しいはずだが
数週間前、仕事が終わった時に違和感を感じたことがありました。仕事の業務から解放されて「自由だ~!」という気持ちは少しもなかったのです。おそらくその時は、怠惰な生活を送っていて退勤後の過ごし方が異常に固定化されていて新鮮味のないものになっていたからだと思います。
人間は「〇〇したい」という願望によってエネルギーが与えられます。例えば、「ドラマの続きがみたい」、「ゲームをしたい」、「好きな人と電話をしたい」、「美味しい晩御飯を食べたい」などになるかもしれません。その時の僕はいずれの願望もなくて、ただただこたつに入ってスマホを触るというだけの過ごし方をしてしまっていたのです。
変化点
しかし、以前ブログでも書いたように自分に対して小さな約束をしてそれを1回守るということをしてから少しづつ変わり始めました。
規則正しい生活を土台として、祈る生活と学ぶ生活に変えてみたのです。まず、ご飯を食べたら、すぐにこたつに入らずにお風呂に入る選択をします。そうすると、お風呂場が祈りと学びの場所になります。まず祈ることでイエス様が共にいてくださっていることがわかって心に喜びが与えられます。
そして、イエス様と共に学習の本を読んだりすることで、学ぶ楽しさや喜びも与えられたのです。仕事でこの技術が必要だからとか知識が必要だからという外部要因だけで学ぼうとすると意欲がそこまで上がらずに無味乾燥な学びになることがあります。
すべての喜びの源泉
しかし、心にイエス様がいてくださるならばすべてが変わります。イエス様がいてくだされば、すべての手のわざが感謝に変わるからです。それは、仕事でも、家庭のことでも、学びのことでも同じです。もし、反対にイエス様が共におられないなら、仕事も家庭のことも学びも心からの感謝と喜びをもってできないのではないかと思っています。
仕事が終わった時に「イエス様との交わりの時間をもてる!」という解放感をもてているなら、恵まれた魂だと思います。しかし、数週間前の僕のように何の願望もなく無意欲で生きている場合、あるいは、世俗的な楽しみを享受できるというので解放感を感じているなら、その魂は恵まれているものではないと思います。
小さな約束
というので、今日も自分に小さな約束をしようと思います。仕事が終わってからは、まず家のことをしっかりやって、すぐにこたつに入らずにお風呂に入ってイエス様との交わりの時間を過ごそうと思います。