「やる気」というものに欠如
僕は「主が僕の中にいてくださっている」と強く感じることがよくあります。たとえば、僕は粗野で不機嫌で性格が悪いですが、人に対して寛容を示したり優しい言葉や行動をすることが出来た時に、主がしてくださったと確信し主を褒め称えます。
また、僕は異常なまでに「やる気」というものに欠如しています。もしかしたら、「えぇそんなことないでしょ」と思うかもしれませんが、子供時代を知る僕の母などは僕の無気力、無活力、無反応を知っています。僕は本当に何のやる気もないのです。社会不適公社であり、仕事も勉強も家事もやる気がでないのです。
力は神のもの
しかし、朝起きて、家事ができたり、仕事ができる時に僕は主がしてくださったと確信し主を褒め称えます。なぜなら、それは僕自身の力ではないと知っているからです。僕は主に救われる前にいかに無気力でやる気がなく怠惰で無責任な人間であったかを知っているからです。だから、自分の中に意欲ややる気を見出す時に主に感謝し主を褒め称えるのです。
聖書にはこのような御言があります。
コリント人への第二の手紙 4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
イエス様が十字架でしてくださったこと
本当にこの御言の通りだと思います。僕が生きれていること自体、僕から出たものでないことが現れるためなのだと思っています。救われる以前、僕は土の器の中に大量の汚物をため込んでいました。怒り、憤り、悲しみ、痛み、不平不満、ねたみ、そねみ、不機嫌などなど。
しかし、イエス様の十字架によって土の器の中にあったそれらのものは一切合切除去されました。隅々にまで掃除機がかけられ、窓が丁寧に拭かれ、整理整頓されました。それはイエス様が十字架でしてくださったことです。
見栄えの悪い姿をしている
僕自身は当時と変わらず依然として土の器です。金や銀の器と比べたら、見栄えの悪い姿をしていることでしょう。しかし、僕はこの土の器の中にイエス様を持ってます。それがすべてを変えてくれたのです。
コリント人への第二の手紙 4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。












