すべては恵み
昨日は、主の力によって肉の働きを無力化することこそがクリスチャンの生き方と書きました。その生き方をする中で、僕は「自分」という罠に何回もかかったことがあります。それは、聖書の御言を読んで、覚えて、身体に編み込んで打率が上がっていった時に、「自分が変わったと思って自分の手柄だと思ってしまう罠」です。
確かに、能動的、主体的、自主的、自律的に主を求めてるのは「自分」かもしれません。しかし、決してそうしているから自分が作り変えられているというわけではないということです。なぜなら、おそるべきことに、すべては「恵み」だからです。
キリストがしていること
クリスチャンは主の前に出て聖書を読んだり祈ったり、集会に出たり献金をしたりするでしょう。多くの場合、それによって、自分が作り変えられていくのを経験すると思います。しかし、それは私のうちにおられるキリストがなしていることであって、自分は何もしていないのです。
言い換えれば、人間はただ単にキリストに合わせて器の形を変えているということです。例えば、人間の器がおちょこなみの大きさだったら、キリストもその小さは器の中にしか入れず、十分に働けないかもしれません。
人間がしていること
しかし、主の力によって肉の働きを無力化していくことによって、器が大きくなったり、使いやすく持ち手がついたりしていくると内住されるキリストの働きが拡大すると思うのです。
そうすると、人間側に要求されることが明確になります。一つは、主に合わせて自分の形を変えることです。2つ目は、その器の中を空にすることです。
主に合わせて器を変える
これは聖書を読んで実践していく過程で行われるものだと思います。道でぶつかってきたおっさんに対して寛容でいれますか?困っている人をみて情け深い行動が取れますか?自分がずっと独身で、友人が結婚して妬むことをしていないですか?
自分に簡単にできることを同僚が全くできなくても、高ぶらず誇らずにいられますか?家の中や過程の中で誰に対しても無作法をしないですか?自分の利益ばかり求めてないですか?電車が遅延して1時間ホームで待たされても苛立たないですか?不利益を被ってもその相手に対して恨みを抱かずにいられますか?
器を空にする
自分で器の中を満たしてないですか?様々なコンテンツや娯楽で器を満たしていないですか?優先順位は合っていますか?
こういった質問を自分に投げかけます。すると、悔い改めることが明確になってきて、また主の力によって無力化すべき項目がわかってきます。