肉の働き
誤解を恐れずにいえば、イエス・キリストに出会ったのちも僕を含む多くのクリスチャンが聖書とおりに歩めてない場合が多いのではないでしょうか。なぜなら、イエス・キリストに救われたのちも、この地上ではこの肉体をもっているので、肉の働きが残っているからです。
救われて神との関係が回復すると心が一新されて、キリストに近づきたいと思うようになります。罪とは原語で「的外れ」という意味ですが、まさに救われる前というのは、全く違う方向に進んでいたということです。それが、方向転換して照準がキリストにあったのです。言い換えれば、コンパスで目指すべき方向が明確になったということです。
クリスチャン人生
クリスチャンの人生とは、この肉の働きをキリストの力によって無力化していくことだと理解しています。人間にはこの肉に打ち勝つ力はありません。人間が本質的にもっている欲望や性質は想像以上に強力です。どれだけ頑張って自分を治めようと限界があります。もし、今自分の力で自分をコントロールできていると思うなら、それは「環境が守ってくれているだけ」の話だと思います。
では、キリストの力によって無力化していくというのはどういうことでしょうか。そもそも、救われたのちも自分自身ではどれが肉の働きかわかっていないものです。それは、真っ白な布に少しの汚れがあればすぐにわかりますが、すでに黄ばんでくすんでいる布に少しの汚れがあってもわからないのと同じです。ましてや自分の顔が汚れているなら、鏡なしでは気づくことすらできません。
無力化の過程
そこで、聖書が登場します。聖書が絶対的な基準になり、読むことによって無力化すべき自分の肉の働きが明確になってきます。また祈ることで語ってくださって、教えてくださいます。そして、今置かれている職場、学校、家庭、教会における様々なことを通して経験的にも教えてくださいます。
そうして、無力化していく過程を繰り返していけば、キリストの姿にわずかながらに近づいていくと信じています。
救われたから不要?
ある人はキリストを信じた時に、「私は完璧に聖められたからそういった過程は必要ない」とおっしゃるかもしれません。しかし、それは罪が赦されたのであって、肉の働きがすべて除去されたわけではありません。救われたのちは、いや、救われたのちこそ、人間側が自主的に、能動的に、主体的に、自立的に主を求めて、主の力を求めていかないと思っています。
このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
コロサイ3:1-2