喜びに満たされて日々を歩みたい
クリスチャンならいつも救われた喜びに満たされて日々を歩みたいと願っていると思います。しかし、常に心に留めておきたいと思うのはその救われた喜びとは救われた当時も今も完全に神様から与えられるものであって、人間がどうのこうのしたところで決して与えられるものではないということです。
僕は一時期間違った生き方をしていたことがあります。それは自分の生活の工夫によって救われた喜びを忘れないようにしようと努力したことです。
理性面からの働きかけも重要
もちろん、それは悪いことではありません。なぜなら、人間は理性的な生き物でもあるので、理性面からの働きかけも重要だからです。しかし、それはある面においては効果的だったかもかもしれませんが、決して深い領域における喜びじゃありませんでした。
具体的に書けば、このブログもその一つです。主がしてくださったことを書いたり思ったりすることで感謝が溢れることがあります。しかし、霊的な深い領域における救いの喜びとは神様との深い交わりの中でなされるものだと思っています。
礼拝の中で主から完全な救われた喜びが与えられる
それは御言であり祈りです。ある議論においては御言か?祈りか?のようなどちらが重要かみたいなことも話されることがありますが、実際は聖書を読むにも祈るにもそれぞれ欠かせません。祈る時には御言を宣言したり、御言が降りてきたりします。また聖書を読んでいる時も祈り心を持って読みます。また祈りと御言葉には賛美や感謝などの礼拝も含まれます。
つまり、人は礼拝の中で主から完全な救われた喜びが与えられるのだと思っています。
完全な救いの喜びとは
では、完全な救いの喜びとはなんでしょうか?完全な救いにあずかるとどうなるのでしょうか?それはイエス様が自分のために十字架にかかってくださったこと以上に重要なことはないと思える状態です。
僕には主から管理を任されているものがありますが、それらは主の十字架の救いに比べたら少しも大したことはありません。ゆってしまえば、仕事があることも、仕事での成果も、なんとか結婚できたことも、家族と過ごせる時間も、主の救いに比べたら大したことはありません。
魂が救われていなければすべてはむなしい
なぜなら、魂が救われている状態がすべてであり、それがなければすべては空しいからです。たとえ、仕事で成功しても、いいパートナーと結婚できたとしても、お金持ちになったとしても、魂が救われていなければすべてはむなしいです。
主はそのような何にも勝る素晴らしい救いを与えてくださるお方です。