0500_「主に道を示されるはずなんてない」と思うこと

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自分でできる

先日のブログ「0495_あの頃のイエス様との親密感」で、救われた当初と比べると、今では自分で色々できるようになっていると勘違いするようになって、次第に、自分の力で生きていくようになっているということを書きました。今持っているものさえすら、自分で手に入れたと大いなる勘違いをしているのです。

今朝祈っていた時に、この御言がやってきました。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
ヨハネ15:5

「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない。」という言葉に対して、「主よ、おっしゃるとおりです。」と言えるのか問われた気がしました。

自分でできないこと

主につながっていなくても、「できるできない」で言うと、きっとできるでしょう。何一つどころか、色々できるのです。しかし、「何ができるのか?」と問われるとどうでしょうか。その「できる」が結んでいる実は果たしてどのようなものでしょうか?

僕の場合は、自分勝手の実、自己中心の実、時には不安の実や不平不安の実も結んでいる始末です。自分ができることから結ぶ実は決してよい実ではないことがわかります。主につながっていなければ、主の御心に沿った素晴らしい良い実を結ぶことなど人間にはできないのです。

主と生きること

主につながっていると、あらゆる状況、あらゆる場面で主が助けてくださるでしょう。良い実を結ぶために主によって、できるようになるのです。それは外部からの刺激に対する反応が変わるかもしれません。以前は、イライラ、ムカムカだったのが寛容な心で反応できるようになるかもしれません。聖書のいう御霊の実が結ばれるようになるのです。

しかし、それだけでなく、主につながっていれば、正しい意思決定もできるようになります。人生は意思決定の積み重ねです。小さな意思決定から大きな意思決定まで、人生を大きく左右するのです。

進学、就職、転職、結婚などは誰も責任をとってくれません。与えられた環境の中で、与えられた条件の中で、悲しいかな自分で決めて進んでいかないとけない現実の厳しさがあります。しかし、もし主につながっているならば、主が「これが道だ。これに歩め。」と進むべき道を示してくださいます。

からし種の信仰から

もし、こういったことを綺麗事、あるいは、「道が示されるはずなんてない」と思ったらその時点で、終わってしまいます。そんな声なき声が僕の中にないわけでもありません。疑いの心も起こってくることもあります。だからこそ、そんな不信仰を打ち消して、一見、綺麗事に思えるかもしれないけど、変えられたいという強い望みをもって今日も、明日も主を求めていきたいです。

おっさん
■主につながっていなければ神の御心に沿った良い実を結ぶことはできない

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