0538_神の峻厳と慈愛

Contents

これまでの祈り

これまで僕の祈りは周りの人のためと自分の仕事に関する内容ばかりでした。確かに周りの人達に主の導きと守りがあることを心から望んでいましたし、仕事も主の助けがないと続けることができないと切実に祈っていました。しかし、別の目線でみればそれはどこかご利益宗教と変わらないような気もしました。

ようは、主に対して、クレクレ星人になってしまっていたのです。主はすべての良きものを備えてくださって、父が子に必要なものを欠けることなく豊かに与えてくださるのは間違いありません。しかし、それはBetterの関係であったとして、Bestの関係じゃないと思わされたのです。

変えた祈り

最近の祈りはこのあたりの言葉を使っています。

  • 初めの愛に帰らせてください。
  • 主を恐れることを教えてください。
  • 主の前にへりくだることを教えてください。

主は恵み深いお方です。主は愛に満ちたお方です。しかし、「神の峻厳と慈愛を見よ」と聖書にあるように、神は義なる神なので罪に対して妥協は一切できないお方です。十字架にはそのいずれもが現されています。

神の峻厳、つまり厳しさは十字架でイエス様が負われた罰です。神は罪を罰さずはおられないのです。しかし、その十字架には慈愛も現れていました。なぜなら、神の峻厳、厳しさは神の子なるイエス様に対して行われたからです。

ぬるい信仰

僕個人を言うと、イエス様の愛に甘えて、なれあい、なぁなぁ、あまえのような関係が続いていたのです。罪の悔い改めも、その度犯した罪に対する悔い改めだけで、根本的にその罪から離れる決心をして180度向きを変えるという完全な悔い改めではありませんでした。イエス様は優しいお方なので、何度でも赦してくださるという甘えがあったからです。

しかし、聖書にはこのような言葉があります。「神を愛するとは、すなわち神のいましめを守ることである。」僕は神様の愛を存分に受けていながら、全くというほど主を愛していなかったのです。

正しい関係に戻るために

だからこそ、今こそ、甘えの心を捨てて、神を恐れる心がほしいと思うのです。そして、イエス様だけに栄光を帰す生き方がしたいと思うようになりました。

正直なところ、「主を恐れることを教えてください」という祈りをすることは怖かったです。また、へりくだることも肉なる自分が激しく抵抗するので、嫌でした。しかし、主の愛に立ち返るために、今、自分の自我や甘えを捨てる決心をしたいと思いました。

おっさん
■初めの愛に帰るために主を恐れることを知る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)