第一コリント13章
先日散歩している時にこの御言を口ずさんでいました。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。
コリントⅠ13:4-8
この御言はキリスト教式の結婚式でも必ず朗読されるものでクリスチャンでなくても聞いた事がある人がいると思います。しかし、この愛を結婚における男女間の愛と置き換えるのは間違っています。
神は愛なり
この御言を味わうためには「神は愛なり」という言葉が必要になります。聖書の神様はそのようなお方であるということです。そして、それを実際に行いとして人類に示してくださったイエス・キリストこそがこの御言そのものの生き方をされました。
このように置き換えても誰も否定できない生き方をされました。
イエス様は寛容であり、イエス様は情深い。また、ねたむことをしない。イエス様は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
僕のイエス様に対する愛
散歩しながらこの御言を思いめぐらせていた時に、ふと僕のイエス様に対する愛はどうだろう?と思いました。この御言の前半は自分と周りの人との関係における愛のことを書いています。
しかし、後半は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」となっています。僕ははじめて、これこそが僕のイエス様に対する愛の思いだと思いました。たとえ、どのような状況にあっても、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える、そのような生き方を主の前にすることが僕の主への愛の表現だと思ったのです。
忍び、望む
僕が若かった頃は、賛美や祈りによって僕の主への愛を表すことが多かったと思っています。それは今も変わりません。しかし、イエス様を愛するという生き方には「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」ということが含まれているということを教えられている気がしています。
どんなことがあっても主に信頼して生きていきます。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネによる福音書 16:33