救霊の思い
こんなことを書くとクリスチャンとしてどうなんだといわれそうですが、僕自身には他の人の魂が救われてほしいという救霊の強い思いはありません。しかし、僕が自分に死んでイエス・キリストが共に生きることを選択し続けるなら、その救霊の思いは切実なほどに強くなります。これはこれまでもずっと同じです。
しかし、もし、肉の欲を満たす生き方を選択するなら、それは自己中心的な自分を満足させる生き方であって他人の救いなどに関心がなくなるのです。これは本当にそのとおりで、救われた者として日々「主と共に歩む」選択をするかどうかにかかっています。
子供に対する救霊の思い
しかし、自分が親になって変わったことがあります。それは「自分の子供が救われてほしい」と思うこれまで感じたことがない気持ちでした。なぜなら、今後この世界がどれだけ大変な状態になったとしても、イエス・キリストさえ手に入れることができれば安全安心だからです。
それはこれまでの自分の体験からもはっきりとそういうことができます。たとえ一人であっても、目の前に道がなかったとしても、主が道を開いてくださるだけでなく、その道を共に歩んでくださるということを何度も何度も体験してきました。だからこそ、この世界を生きるにはイエス様が必要だと思っています。
親の務め
もしかしたら、自分の子供がイエス・キリストと出会う体験さえできれば、クリスチャンの親の務めはほとんど終わると言ってもいいかもしれません。もちろん、未成年のうちは経済的または精神的なフォローをする必要があります。しかし成人するまでに子供が生きたキリストに出会えるように祈りながらサポートするのが親としての最大の務めだと思っています。
そのためにの最優先事項は自分自身の日々の家庭での信仰生活です。子供は親の教会生活と家庭生活の矛盾を一瞬にして見抜きます。そして、この信仰が本物かどうかを判断するのです。そのためには神の助けなしにはできません。いやらしい表現になりますが、親が主にあって力ある霊的な生き方をしていることを子供に見せないといけないのです。
そのためには些細な罪も見逃すことはできないので、家庭内でこそ自分の話す言葉や行動に細心の注意を払いたいと思います。
子供や親と同じように生きる
たとえば僕はこの前車を運転していた時に粗暴な運転をする車を見て「あほか、こいつは」と無自覚にゆってしまっていました。そのあとで運転しながら、すぐに心の中で悔い改めました。もしこどもがこういった言葉を聞いたらすぐにまねするでしょう。イライラすることがあったらそれを口に出して罵声してもいいと学習するからです。
そのほか、家庭生活以外でも教会生活をどう送らせるのか?少子高齢化の中でどのようにCSをもち、信仰の友を見出してもらうのかなど子供がイエス様に出会える環境を考えるのに悩みは尽きませんが、とりあえずは、祈ることと自分の家庭での言動に注意を払いたいと思います。