0830_自分に奉仕が当たっている時だけ必死に祈る自分中心のおじさん

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礼拝の奉仕

これまで教会で礼拝に関する奉仕がある場合は、1週間前から祈って備えるようにしていました。そのため礼拝の奉仕を控えている週は普段よりもよく祈ることが多いです。それは、まず自分自身が神様との深い交わりの中に入らなければ礼拝の奉仕はできないと考えているからです。

それは、掃除や事務的な奉仕とは性質が異なります。もちろん、すべての奉仕は感謝の心をもって主が共にいてくださってはじめてすることができることに変わりはありません。しかし礼拝となると、奉仕者自身が神様が礼拝の中で何をなされたいのか、どういったことを望んでおられるのか、を祈りの中で教えて頂く必要があると思っています。

神の御心を求める

なぜなら、礼拝に携わる者は、語ったり祈る中で、神様の御心を知らなければそれを自分の口から現わすことができないからです。もし、自分が思うままに自分勝手に祈ったり語ったりするならば、それは神様の御心から離れることになってしまいます。それがたとえ、神様の御言であったとしても、神様が「今日」伝えたいことや語りたいことを知らなければなりません。

ですので、祈りの奉仕にしろ、説教にしろ、あるいは奏楽などにしても、祈りもって聖霊の一致を求めることが唯一人間側に求められることだと思います。そして、神様との親密な関係をもって礼拝に臨むことが必要だと思っています。

毎週礼拝はある

その一方で、僕は自分が礼拝の奉仕に当たってない時に、同じ温度感で祈れていないことに気づきました。これまでは自分が奉仕が当たっている時だけ時間を聖別して祈る時間をもっていたのですが、奉仕がない週はどうしても緊張感にかけるものになってしまっていました。

これは礼拝者として正しくない態度だと教えられました。なぜなら、毎週教会で礼拝は捧げられています。そして、自分自身以外の誰かが必ず奉仕されています。もし、今日の礼拝で神様の御心がすべての人に伝わるようにと祈るならば、奉仕があたっていてもいなくても、主に祈り求め続けるはずだからです。

祈りの動機

僕は神様の御心を求めていると言いながらも、結局は「自分自身が奉仕すること」を中心に祈っていたのだと思わされました。だから、これからはそういった生活はやめようと思います。たとえ、自分が奉仕が当たっていなくても、自分が奉仕をする如く、神の御心を求める祈りを平日行い奉仕者のために祈りたいと思いました。

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