1314_信仰によって義とされていたとしても、実生活で罪にまみれていたら、その義に何の意味があるのか?

救いには信仰が必要

キリストの十字架による救いは知識において知っているだけでは何も起こりませんが、そこに信仰が働くと爆発的なエネルギーが心の中に生まれます。それは、人間の価値観や人生を完全に変えるほどの大きなものです。

キリストの救いには信仰が必要だということは聖書に書かれています。

すなわち、もしあなたが自分の口で『イエスは主である』と告白し、また神が彼を死者の中からよみがえらせたと心で信じるなら、あなたは救われるのである。人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるのである。
ローマの信徒への手紙 10:9-10

しかし、パウロを見ると彼はイエス・キリストとの劇的な出会いによって救われたように見えます。その体験は信じないという選択肢を人に与えず、信じざるを得ないと思わせるものであったと思います。

なんだ。これほどのものなのか

僕自身の体験で言えば、幼いころから教会に行っていたので自分の罪を認めてイエス様の十字架を信じるのは難しい問題ではありませんでした。だから、心で信じて義とされて、口で告白して洗礼を受けて救われました。

イエス様の十字架の救いは信じていましたが、不謹慎ながら「なんだ。これほどのものなのか」とも思っていました。それは、罪は確かに赦されたけれど、罪を断ち切る力はないんだと思ったからです。たとえ信仰によって義とされていたとしても、実生活で罪にまみれていたら、その義に何の意味があるのか?とさえ思っていました。

信じて求めるというレッスン

イエス様の十字架には、確かに罪が赦されたという確信を与え、罪を断ち切る力があります。僕がそのことを知るにはまだまだ信仰のレッスンが必要でした。

それはイエス様が今も生きておられると信じて求めるというレッスンでした。自分が本当に信じているのか信じていないのかはわからない。しかし、もしイエス様が本当によみがえって生きているなら僕に出会ってほしいと心の底から思うようになりました。

からしだねほどの信仰

きっかけは、10代で既に人生に行き詰ってどうにもこうにも行かなくなったからです。僕みたいな社会不適合者は生きれば生きるほどネガティブなものが積み重なっていっていくので、いずれは人生につむようになっていました。

高校生の時に藁にもすがる思いでイエス様を求め始めました。それが本当の意味で僕の心の中に生まれたからしだねほどの信仰でした。当時の祈りは「イエス様、僕はつらいです。あなたが今も生きておられるならどうか僕に出会ってください。」というものでした。

信じざるを得ない

当時、確かに僕は心に信じて義とせられ、口で告白して救われていました。しかし、僕に必要だったのは今も生きておられるイエス様に出会う体験でした。その体験は自身の救いに圧倒的な確信を与えるものでした。そして、十字架には赦すだけでなく、今縛られている罪の束縛も断ち切る力があることを信じさせるものでした。

もちろん僕はパウロほどの劇的な体験はしていません。しかし、その体験がイエス様のことを信じざるを得ないと思わせるものであったということに間違いはありません。

イエス様は今も生きておられます。そして、求める者には必ず出会ってくださるお方です。

あなたがたが、もし全力をつくして、私を求めるならば、私を見いだすであろう。
エレミヤ書 29:13

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