1162_肉の目で教会の人間関係を見るならつまずくだけだが…

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教会の人間関係

先日は教会における人間関係には神様の特別な恵みや祝福があるということを書きましたが、今日もそれに関することを書こうと思います。個人的な経験によると教会における人間関係は入り込めば入りこむほど、肉における側面から見た場合、つまずきを覚えることが多いように思えます。

1159_「教会の人間関係ほど面倒なものはない」と思ったことがないわけではない

それは当然ですが深くなればなるほど、あばたもえくぼではなくて、あばたもあばたにしか見えなくなるからです。また神様の完全さ、神聖さを切に求める集団であるにもかかわらず、人間の弱さや憎さを目の当たりにするからだと思います。

肉の目で見るなら

もしそういった肉の側面からだけ教会の人間関係を見るのであれば、間違いなくつまづくだけでしょう。もちろん、頭では信仰の導き手であり、その完成者であるイエス様だけを見ないといけないと思っていても、人間の肉は人を見たがるものです。教会で人を見て「なんで?」とかゆったところで何の意味もないとわかっているにもかかわらず。

しかし、もし、霊的な側面で見るならばそれは恵みと祝福に変えられます。なぜなら、人間の弱いところに主は働いてくださるからです。どうしても難しいと思えるようであっても、「自分も人を躓かせる存在です。」や「相手を受入れて祝福します。」と切に祈る時に大きな神様の祝福が訪れるからです。

いろいろな人と出会える

教会における人間関係が素晴らしいと思えるのにもう一つ理由があります。それは色々な人が集まっているということです。ただ神様の救われているという条件だけで人が集まっているのです。普通に社会のレールを歩いていただけでは決して出会うことがなかった人たちと出会うことができます。

これまで僕は生まれ育ったペンテコステ派の母教会、北京での長老派の教会、広東省での地下教会、現在の福音派の教会、すべてにおいて、そこでいろいろな人に出会えたことに感謝しています。

横の関係における神の祝福

なぜなら、クリスチャン生活とは神様との縦の関係を前提としたうえで、横の人とのかかわりの中で神様の栄光が現れるからです。縦の関係だけを重視して、山にこもって神様との関係を重視するという生き方では、教会における神の栄光の現れの恵みからもれてしまうと考えています。

先日は以前の教会で子供のころから知っていた友人が働いているお店に行きました。久しぶりに会っても霊的なつながりを強く感じるものです。本当に神の家族は素晴らしいと改めて思いました。

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