1161_「何もしない」ということができなくなった

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長く祈れなくなっている

数十年前に比べると、自身の祈りにおいて霊的な深みがだいぶなくなってきていると感じています。祈っても浅いのです。祈っても待てないのです。祈っても没入できないのです。祈っても集中できないのです。祈ってもすぐに目を開いてしまうのです。

以前は一人でただ主の御声を待つという行為だけで数時間も主の前に出れていました。そういった時間が僕の力の源であったのにかかわらず、今やその源泉となる時間を失っているのです。今は数十分でもきついです。何もしないということができなくなっているのです。

ただ主の御声を待つ行為

何もせずに主の御声を待つというのはとても大切な時間です。自分の声は出さすに一方的に語り掛けを待つときに御言を通して語られたりするからです。特に重大な判断をしないといけない進学、受験、就職、転職、結婚などの重要局面ではそういった祈りが必要になると思います。

にもかかわらず、祈れないのです。すぐに他のことを考えてしまったり、スマホで自分を見たそうとしてしまうのです。

自然は真空を嫌うと言います。それと同じように多くの場合人間は何もしていないこと嫌うものです。時間があればテレビをつけたり、スマホでニュースを見たり、音楽を聴いたり、Netflixで動画を見たり、本を読んだりします。

何かで自分を埋めようとする

僕は仕事をしていない時間や家事をしていない時間などはすぐに活字を読みたくなります。食事中に本を読んだりするので、嫁さんから子供が真似をしてお行儀が悪いからやめてくれと言われていますが、すぐに活字を読みたくなるのです。

僕にとって自分を満たしてくれるものが二つあります。その二つはたいして僕を満たしてくれるわけでもないのにすぐに手が出てしまいます。それはスマホと本です。

本当に神様の前に出たいなら、本当に深い祈りの中に入りたいなら、そこから離れないといけないと思わされています。

本が厄介

スマホ脳のシリーズを読んでるため、スマホはネガティブなイメージがあるから離れないといけないのは頭ではわかります。しかし、本はなかなか難しいです。小説や雑誌を読んで夢中になっているわけではなく、英語の勉強の本や経済の本を読んでいるので「自分には必要だろう!」という合理的な理由づけが簡単になされてしまうのです。

ちょっと辛いですが、とりあえずは一旦今週は本を読むのをやめようと思います。食事の時、お風呂に入る時、通勤の時、本を読むのをやめることをした時に起こる自身と祈りの変化を見てみたいと思います。

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