1160_自分の頼りなさを知ると先手、先手で祈るしかなくなってきた

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今日祈れるのは

以前も書きましたが、今自分が祈ることができているのはただ単に今いる環境がいいから祈れているのではないか?と思うことがありました。あるいは今日はいいことがあったからとかいい気分だから祈れているだけなんじゃないかと思ったことがあります。

1139_心に感謝が満ち溢れているのはいいことがあったからに過ぎない

もし、誰が見ても「こんな状況でどうして神に祈ることができるんだ?こんな状況でどうして主を賛美し、主に感謝をささげることができるのだ?」というような状況で祈れてこそ試練に耐えうる本物の信仰だと思っているからです。

自分の弱さを知っているからこその祈り①

また、僕は自分が大切な奉仕がある時だけ熱心に祈り、奉仕がない週は気が緩んでそれほど祈らないことも知っています。だから、奉仕がある時に祈ることができることに感謝する一方で、主の前に自分が奉仕があるから祈っているにすぎないということも告白します。

「イエス様、奉仕が与えられており、主の前に出て祈って備えることができる恵みに感謝します。このような時を与えてくださり感謝します。しかし、その一方で僕は決して継続的に熱心な者でないことを知っています。奉仕がある週だけ積極的に主の前に出る私をおゆるしください。」

自分の弱さを知っているからこその祈り②

また僕は奉仕が終わって恵まれたら自分が得意になることを知っています。恵まれて主に感謝をしますが、自分が何者でかあるかのように錯覚してしまうのです。だから奉仕の前にもこのように祈らざるを得ません。

「イエス様、僕は奉仕が終わったあとあなたの前に高慢になり自分が何者かであるかのように大いなる勘違いをしてします。どうかそのようなわたしを赦してください。またそのような主からお守りください。」

どうな時であっても

自分の頼りなさや弱さを知ればしるほど、このように先手を打って祈らざるを得なくなることが増えてきました。しかし、それであっても、主は想像を絶するほど異常なほどに憐れみ深いお方で、大きな恵みと憐れみをいつも与えてくださっています。

願わくは、先手でこのような祈りをしなくても、いつも喜んで主の前に主の交わりを楽しむ者になり、いつも主の前に自分を低くして歩む者になりたいと願っています。

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