1088_どうにもこうにも祈れない時

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祈れない自分の本当の姿

先日はある牧師先生の言葉を引用して、「もしあなたが一人部屋にいて神に祈ろうとしても、そこで祈れないならそれが今のあなたの姿です。」と書きました。もしそのような状況になった時はどうすればいいのでしょうか。クリスチャン生活を送っていると、この祈れないという状況が襲ってくることがあります。

多くの場合、他のものに心が奪われていたり、何かに対して苦々しい思いを抱いていたり、神様の前に不真実な心を持っていると人は神様に祈れないものです。なぜなら、罪深い人間が神様と交わろうとするときに必ずイエス様の十字架を通らないといけないからです。

悔い改めなしでは祈れない

誰でもイエス様の十字架の血潮のきよめがなければ神様の前には立つことができません。ですので、前提として必要となるのは神様の前に悔い改める心です。それでも僕みたいな強情な人間は頭ではわかっていても感情で「悔い改めたくない!」と思ってしまうことが少なくありません。

そういった時は本当に魂が恵まれないですし、命の泉も流れない乾燥した殺伐とした心になってしまいます。そのような状況になった時どうすればいいのでしょうか。もちろん、悔い改めて祈ったり聖書を読んだりすれば垂直立ち上げはできるはずです。しかし、時にはそれすらできなくなることもあります。

教会の集会に行く

そういった時の最もいい方法は教会の集会に参加することです。これがすべてのクリスチャンに与えられている週に1回訪れる恵みのセーフティーネットです。僕のこれまでの人生を顧みても、教会の集会があったからこそ魂が生き返ることができたということが少なくありませんでした。

教会は神の家であり、神が臨在されるところであり、神の御言が語られるところであり、神が褒め称えられているところです。そこに物理的に身をおくことによってかっちこちに固まった無感覚な魂に安らぎが与えられるようになります。

賛美をする

では教会の集会までにまだ時間があるが何とかしたいという場合はどうすればいいでしょうか。その時は賛美が一番です。Youtubeなどで賛美を流すだけではなくて、自分自身も合わせて賛美することで、囚われていた魂が解放されたり、命の水が流れ始めることがあります。主の霊のあるところには自由があります。

あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
詩編51:12

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