0234_死刑と無期懲役回避の裁判

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死刑求刑に対して無期懲役

先日、2016年に入院患者3人の点滴に消毒液を混ぜて中毒死させたとして殺人罪などに問われた事件の判決がありました。判決によると、被告である看護師には完全な責任能力がありましたが、死刑求刑に対して無期懲役の判決となりました。

引用元:yomiuri.co.jp

僕自身は法律のことはわからないので、なんとも言えないのですが、3人を殺した上、責任能力も完全あるにも関わらず、無期懲役という判決には注意を奪われました。特に印象的だったのは裁判長のこのような言い方です。

「被告の努力ではいかんともしがたい事情があった」

うつ状態に追い込まれ、患者の死亡時にミスをして責められるのを避けるためには、患者を消し去るしかないとの発想に至った過程には「被告の努力ではいかんともしがたい事情があった」というのです。関係者によると、今回の判決は、死刑か無期懲役かのギリギリの判断だったそうです。

大祭司なるイエス・キリスト

「努力ではいかんともしがたい」というのはこの世の中も同じだと思います。ある人は自己責任論を主張するでしょう。しかし、スタート時点で環境などが不平等であれば、結果も不公平にならざるを得ません。今この結果、この状況にあるのは、本人の努力が足りなかったと一蹴するのは極めて自己中心的な考え方だと思います。

事実、イエス・キリストも人類一人ひとりに対して、同じように「被告の努力ではいかんともしがたい事情があった」とおもんばかってくださって僕たちの罪を赦してくださったのです。聖書ではイエス・キリストは永遠なる大祭司と書かれています。つまり、罪人と神の間をとりなす存在であり、弁護士のような存在でもあります。一方、悪魔は検察官のような存在です。僕たちの罪を告発し、叱責し、魂を死刑にしようとつねに働いているのです。

しかし、イエス・キリストは僕たちの弱さをご存知で、十字架で罪を取り除いてくださり、今もとりなしてくださっているのです。死刑を回避させるだでなく、無期懲役を回避するだけでなく、刑を免れさせてくださったのです。そして、罪なきご自身がその罪を受けられました。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
ヘブル4:15

いかんともしがたい事情

人間には罪がある以上、それが原因で様々な問題が生まれてきます。人間関係の軋轢、不平不満の言語化、自己中心による排他的な考えなど。しかし、それは、「僕たちの努力ではいかんともしがたい事情がある」からなのです。つまり、罪ゆえにです。

イエス・キリストはこの罪を取り除き、白い衣を着せ、ぼくたちの心を雪のように白くするために来られました。そして、僕たちはこの方に、恵みによって神に近づくのです。

だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
ヘブル4:16