場所と記憶
先日久しぶりに地元の水族館に行きました。この水族館は色々な人と行った記憶があって、いい思い出も悪い思い出も詰まっています。水族館を歩きながら、あの頃は若かったな~と感慨深い気持ちになりました。現在の自分を見て、神様が明確に僕を導いてくれていたんだという気持ちになりました。この水族館によく行っていたあの頃はとりあえず、あんまりいい思い出がなかったのです。
場所というのは、人間にとって人や物と同様非常に特別な概念です。物理的に離れたからといって、自分から完全に切り離されるというものではなく、自分の記憶とその土地がコーヒーに牛乳を入れるが如く、混ざり合っています。
記憶は場所から離れられない
仮に、一念発起、新天地へ居住地を移したとしても、過去に住んだ土地や場所の記憶は頭に残り続けます。そして、例えば、その場所や土地を訪れると、記憶の導線が発火して、当時の気持ちや映像が生々しくよみがえってくるものです。
仮に「もうこんな場所いやだ」と思って、全く見知らぬ人がいる土地に移り住んで、そこで新しい気持ちになったとしても、それは一時的な気持ちの高まりであって、自分は何も変わっていないものです。
良い記憶と場所
しかし、そんなネガティブなことだけじゃなくて、いい記憶が紐づいている場所や土地もあります。僕にとっていい記憶が紐づいている場所は教会にほかなりません。正直に言うと、教会は水族館では比べ物にならないほど、色々な経験をしました。
人と人とのぶつかり合い、人間臭さ、理不尽、非情無情などなど、教会と聞いてイメージすることとは程遠い経験をしてきました。しかしながら、記憶にあるのはそういったネガティブなことではなくて、神様のすばらしさ、恵み、祝福、憐れみ、慈しみなんです。それが教会が不思議な場所と言われるゆえんなのだとも思っています。
教会とは
なぜ、このような気持ちになるのでしょうか。その最大の理由は、教会は神がおられるところだからです。神がおられるところに自由があり、平安があり、愛があるからです。誤解を恐れずに言えば、決して人間に愛があるから教会で愛を感じるのではなくて、愛なる神がおられるから、愛を感じるのです。
そして、聖書には罪の増し加わるところに、恵みも増したと書いてあります。この御言は慎重に受け入れる必要があると感じているのですが、僕としては、教会の人間臭さが増し加わるところにも神の恵みが増し加わったと感じています。
だから、教会はいつでも僕にとってよい記憶が紐づいているところです。そして、その記憶が永遠へ繋がっていくのです。