0858_主が導いてくださり、主が光を照らし、主が目を開き、主が耳を開いてくださらなければ、僕は何も悟ることはできない存在

主の臨在

今日いつもどおり筋トレをしたあと水風呂に入りました。湯船に浸かって祈り始めた時に正直だいぶ久しぶりに主の深い臨在を体験しました。祈りは賛美から始めました。賛美と言っても歌う賛美ではなく告白する賛美です。例えば、「主は素晴らしいお方です。」とか「主は賛美を受けるにふさわしいお方です。」とか、心からの告白をもって神様を称賛、絶賛しました。

すると、主が受け入れてくださっているということがはっきりとわかりました。その後、御言も開かれて覚えた御言での賛美が続き、あっという間に風呂場で40分の祈りの時間が持たれました。

ここ数週間の出来事

祈る中で、今回僕が体調不良になったのは、僕にとって必要な過程であったということがわかりました。これまで神様を褒めたたえますとか賛美しますとか口では言っていても、実は神様以外に大切にしているものが僕の中にあったのです。つまり、僕は主を真実をもって賛美していなかったのです。

しかし、熱中症によって四肢が完全に硬直して動けなくなる体験や救急車を呼ばざるを得ない内からくる強烈な苦痛や咳が1週間以上止まらない体験は僕にへりくだるということを教えました。寝るにも苦しく、口呼吸からくる寝起きの倦怠感も異常で体力的に厳しい時を過ごしました。

自分の中にある不要なもの

これらの非常にネガティブに見える事象から大切なことを学びました。それは、僕の命は全く塵に過ぎないものだということです。また時間的にも空間的にも極小の見えない点以下の存在ということです。自分自身の体すら自分で制御できないこと、咳一つすら自分ではどうすることもできないことに自分自身だけで生きているわけではないということがわかりました。本当の意味で、「生かされている」ということが分かった気がしました。

生かされている存在であるにもかかわらず、自分が普通に生活を送っていると知らず知らずのうちに自分が何者かであるかのような大いなる勘違いをしたり、神様以外に大切なものを自分の心の中で育て始めたりしていたのです。主が僕のことを大切に思ってくれているということを都合よく片手にもちながら、もう片方の手ではしっかり自分の大切なものを握っているような生活だったのです。

なぜ自分は悟るのか?

もし、今回の体調不良がなければ僕はずっと自分が二心であったということにすら気づかなかったでしょう。ただ、主が導いてくださり、主が光を照らし、主が目を開き、主が耳を開いてくださらなければ、僕は何も悟ることはできない存在だと思いました。

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