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神は愛
大好きな聖書箇所にこの言葉があります。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
詩篇8:4
はじめであり、おわりであるお方、あってあるものであるお方、万物を創造された神がどうして、80億分の1の取るに足りない者に目を留めてくださるのでしょうか。目に留める価値のある者だったらまだしも、人格的にも資質的にも底辺中の底辺である僕に気を留めてくださる理由が全くわかりません。どうして、永遠のお方が悠久の時の流れの中でわずかな点に過ぎない者の存在に心を留めてくださるのでしょうか。
イエスこそが愛
神はこの無きに等しい者に強烈な関心すら持ってくださいました。さらに言葉も与えてくださり、この神は実際に行動に移して、その愛を表わしてくださいました。聖書はどこを切っても血が流れるといわれるように、イエス・キリストこそが聖書全巻を貫いている真理です。
彼はただ殺されるために神の子として生まれました。永遠であり、無限であるお方が、一瞬であり、有限である人となられたのです。さらに王として生まれたわけではなく、貧しいイスラエル民族の一人として生きました。聖書に深い知識はあったにもかかわらず、既得権益である宗教指導者としてではなく、大工として汗水流して働かれました。罪を犯されませんでしたが、人としてこの地上で歩み、試みや誘惑にもあわれました。
思ってくださるお方
僕は若かりし頃、恋愛感情で非常に悩んだことがありました。この苦しみをイエス様はわかってくださるのだろうかと祈っていた時に、「わかってくださっているんだ」という確信が与えられたことがあります。それはどんな苦しみも同じです。仕事の苦しみ、人間関係の悩み、経済的な悩み、思春期の悩み、人との別れなどイエス様は、僕たちに寄り添うために経験してくださったのです。聖書にはこのように書かれています。
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
へブル 4:15
この方に
イエス様だけが苦しい思いをして、イエス様の愛を受けて僕はのほほんと生きていいのか?という気持ちから最初の聖書の言葉に戻ります。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
詩篇8:4
若い頃は何でも捨てられる!と思っていても、年を重ねるにつれて、持っているもの(知恵、知識、経験、体力、富など)が多くなってくると、この世での喜びや楽しみ、富や地位などに執着したくない気持ちがないわけではないことに気づかされます。
今一度、これから僕はイエス様に何をさせて頂けるのだろうか?あるいは、自分自身を完全にお捧げできるのだろうか?真剣に自問して生きていきたいと思いました。