力で統治すること
そんなに国の政治や組織のことを知っているわけではありませんが、歴史や経験からわかることは強権で人を治めようとすると必ず失敗するということです。力による支配は一時的には成功したように見えるかもしれませんが、治められる側がたとえ無知であったとしても、本能からくる違和感が存在しているのです。
それが何かの変化がきっかけで、違和感が疑いに変わり、「何これ、おかしいじゃん」となって改革や革命が起こったりするのだと思います。
違和感は疑いに変わる
冷戦時代は、東側が力によって人々を治めようとしました。その統制は当局による監視や盗聴だけでなく、隣人が隣人を監視し、先に密告しないと逆に密告されるなど人々を疑心暗鬼にさせました。
何の情報もなかった時は無知のため何も思わなかったかもしれませんが、少しでも西側から自由や民主などを謳歌する情報が入ってくると違和感が失望と疑いに変わり、多くの国で政変が起こってきました。
管理者の考え
為政者は管理ができると、安心します。それは目に見えるものだからです。データや個人情報やその人の発言がすべてだと思い、管理し自分の支配下にあると勘違いしてしまうのです。
コロナ禍以降、企業でもリモートワークに振り切っている会社もあれば、出社とのハイブリッド、あるいは完全出社等様々な勤務体系を取っています。ちらほら耳に入ってくるのは、リモートワークだけれども、管理がだるいので、結局出社したほうが楽だという声です。管理者は従業員は管理されることによって、真面目に働くと思っているのかもしれません。しかし、従業員からすると、「俺を信じてくれ」と言いたくなるのでしょう。
聖書の方法
イエス様がこの世に示された方法は、力で治める方法ではありませんでした。当時、イスラエルの救い主を待ち望んでいた民は、救い主がこの世界を目に見える形で治めてくださると思いこんでいました。しかし、イエス様はこの世の王になるどころか、殺されてしまうのです。
イエス様が示され他方法は、一人ひとりに働きかけ、一人ひとりにご自身を表し、一人ひとりが自主的主体的能動的に主に従っていくことでした。それは目に見えないところで起こった変化が中心です。聖書にはこのように書かれています。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
エレミヤ 31:33-34