0744_教会にコミットすると何であれ心に大きな喜びが与えられる説

教会にコミットすること

今日は3回教会に行きました。6時30分から早天祈祷会に参加しました。10時からはCSの準備と印刷物の奉仕の手伝いに行きました。13時からは聖書の学びに行きました。ここ数年、コロナになってからめっきり教会にコミットする時間は減ってしまったのですが、少しずつ、教会での役割も増えてきて感謝しています。

実は、僕の場合は、コロナになる前から教会へのコミットを減らしていた時期があります。それは僕が不信仰になっていたからです。土曜日も日曜日も教会にコミットしていると自分のスキルが落ちるし、キャリアアップもできないと思いこんでいたからです。しかし、表向きの理由を剥がすと、ただたんに自分の時間がほしかったという利己的な理由にすぎなかったのです。

自分のことにコミットすること

もしかしたら、それはある面においては正しい判断だったかもしれません。確かに自分の時間が増えて、自分のスキルも知識も増えました。そしてそれが仕事の役に立ったことも否定できません。しかし、自分の時間からは決して教会にコミットした時に与えられる大きな喜びはありませんでした。

自分のためにして得られた楽しみや喜びは本当に薄いものだったのです。益がなかったとは思いませんが、もっと益があることがあったんじゃないかと思いました。

教会とは神の家

たとえ、教会でする奉仕が印刷であれ、掃除であれ、それにコミットするとどうなるでしょうか?これは非常に不思議なことなのですが、なぜか心に大きな喜びが与えられます。

それはこの世が与えるものではありません。それが教会と言う場所なのです。なぜなら、教会は神の家だからです。確かに、教会という場所に縛られなくてもイエス様は僕たちの心の中におられます。しかし、その体験と教会とでの体験はまた別のものだと思っています。

永遠にながらえること

だから、これからもっと教会にコミットしたいと思っています。聖書にはこのようにあるからです。

世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
ヨハネⅠ2:15-17

おっさん
■教会とは神の家

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