1256_昨日書いたことは間違いであったと教えられた

自然災害すらも人を悔い改めに導く?

昨日は金が火によって不純物が取り除かれて精錬されるように、人も困難や過酷な状況におかれることによって悔い改めに導かれて主の前に立ち返ることができると書きました。さらに僕はそのためには自然災害すらも人を悔い改めに導くものなので、それから逃れるために祈るよりもそれによって悔い改めに導かれる祈りのほうがいいのではないかという持論を展開していました。

1255_悔い改めに導かれるほうが価値があると思ってしまう
しかし、この内容を書いてからずっとひっかかるものがありました。それは上記の僕の持論が間違っていたからです。口から出た言葉は僕に返ってくるのでそのままにしておきますが、改めて感じたことはこのようなものでした。

徹底的に悔い改めた器

人は自然災害によって悔い改めに導かれるのではなくて、徹底的に悔い改めた器が語るメッセージによって悔い改めるということです。神様からこのように語られたように思いました。

「あなたは悔い改めのメッセージが語れますか?そもそもあなたは徹底的に悔い改めていますか?自身が徹底的に悔い改めることもせず、悔い改めのメッセージを語ることもなく、自然災害に人々を悔い改めを求めてどうするのですか?」

徹底的な悔い改め

僕は本当にその通りだと思いました。聖書を見ても人を悔い改めに導いたのは自然災害ではありません。やはり神の器が語った言葉によって人は悔い改めに導かれたのです。ヨナやバプテスマのヨハネや徹底的に悔い改めた器が語る言葉によって人々は心から悔い改めて神に立ち返ったのです。

僕には悔い改めのメッセージを語ることができません。それは僕が徹底的な悔い改めをしていないからです。だから僕が語る言葉にはもちろん、力もないし、人を悔い改めに導けないのです。それはつまり人を救いに導くことができないということです。

福音宣教の土台にすら乗れていなかった

僕は今の教会のCSの説教でも最初の1年間は聖書の言葉は語っていましたが、自分がもう一度十字架を体験するまでは本当の意味で十字架は語れませんでした。改めて自分が体験したことしか語れないと感じました。それは悔い改めも同じだと思います。徹底的な悔い改めを体験した人だけが力強く悔い改めを伝えることができるのだと思います。

僕はこれまでずっと自分の置かれているところで福音宣教の働きをしたいと強く願っていましたが、その実は、その働きの土台にすら乗れていなかったと今回思わされました。自然災害が悔い改めに導くなどと書いてしまい申し訳ありませんでした。

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