1255_悔い改めに導かれるほうが価値があると思ってしまう

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悔い改めに導かれる

僕は自分自身が非常にひねくれており性格も悪いと思っています。そういったことは、自然と言葉や行動や祈りにも出てしまうので、常よりTPOを考えないといけないと思っています。たとえば、今日は礼拝で今週日本列島にくる台風の被害が低減されるようにという祈りが捧げられていました。

僕自身も台風の被害が低減されることを願っています。しかし、それ以上に、今回の自然災害によって人々が悔い改めに導かれて主に立ち返るようにと願ってしまうのです。なぜなら、この地上での台風の実害はこの地上だけのことです。しかし、魂のことは永遠に続きます。だから悔い改めに導かれるほうが価値があると思ってしまうのです。

何事もないほうがいい

そうはいっても、この地上での悲しみも痛みも避けたいです。なぜなら、この地上での苦しみは人を死に追いやるほど力のあるものだからです。だから、こんなことを願う人はほとんどいないんじゃないかと思うと自分の性格の悪さが嫌になることがあります。

もちろん、何事もなく悔い改めに導かれるほうがいいに決まっています。しかし、僕の個人的な体験によると、人は困難や過酷な状況に追い込まれたり、自分でも知らなかった自分の闇の一面を直視させられて苦悩することをしないと、なかなか悔い改めに導かれないのではないかと思うようになりました。

キリストに従うこと

困難や苦しみは確かに人を低くさせてキリストに近づけさせる近道になります。なぜなら、悔い改めとはキリストが歩まれたへりくだりの道を第一歩を踏み出すことだからです。悔い改めによってでしか、キリストに従うことができないからです。

悔い改めなしでは、キリストと共に歩んでいると思っていても実際は自分だけで歩んでいることになります。僕自身は悔い改めなしでイエス様と共に歩んでいると思い込んでいる期間がありました。その期間は本当につらいものでした。なぜなら、主が共におられるはずなのになんで僕の心はこんなにも平安がないんだ!という矛盾に苦しめられたからです。

悔い改めに導いてください

だから僕個人においては、いつもこのように祈っています。

「私を悔い改めに導いてください。高いところにいるなら低いところを歩ませてください。あなたがおられるところへと導いてください。」

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