0284_お庭巡りから行き着いた所

お庭巡りにハマっていた頃

以前、よくお庭巡りをしていました。一人で庭を見つめながらぼーとする時間は特別です。当時、神様の御心に従えば心に平安が来るのはわかっていても、周りや自分の考えを優先したい気持ちが強くなってしまった時がありました。誰にも相談できない場合、お庭で自分と対話するのです。クリスチャンの場合、問題が起こった時の対処方法としては、「祈るしかない」というのは、砂漠で迷ってしまった時、GPSの電源を入れて現在地を知るのと同じくらい重要です。祈ることなくしては、あらぬ方向に進んでしまう危険性があるからです。

とはいえ、GPSの電源を入れるべきとはわかっていても、自分の力でこの砂漠を脱出できるという思いが強くなった時、なかなか、神により頼むことができなくなります。宗教上の問題であれば、普通の友人にはなかなか理解してもらえないですし、教会の方だと「祈るしかない」と言われるのがおちなのです。そういった時、自分と対話する場所としてお庭があったのです。

お庭を眺める効能

何時間もお庭を眺めながら自分と対話する必要があるので、観光地になるようなところには行きません。知る人ぞ知るとまではいきませんが、アクセスが悪い人の少ないマイナーなお庭を探します。数百年間も前から残り続ける、その道を極めた人が造りだした空間にはぐっと感じるものがあります。洗練された無駄のない空間、粗削りだけれど、調和を保っている空間など見るものに様々な影響を与えてくれます。

また、季節ごとに景色はもちろん変わりますし、座る場所を少し変えると全く別の風景が見えることもあります。そういった点において、ただ自然の中に身を置くだけでは得られない人工物と自然の調和を楽しむことができます。

最終的に行き着いたところ

今から思い返すと、そういった一人の時間はとても重要だったと思います。結局最後は、GPSの電源を入れて祈るという段階に入るのですが、そこに入るまでに「自分がいったい何を大切しており、どのような道をたどって来て、これからどこへ向かいたいのか?」という人生の根本的な問題に向き合えたからです。頭の整理ができると、あとはその大切なものに向かうだけなのです。当時の僕の場合は、結局は自分が大切にしているものは、「これまでも、そしてこれからも共にいてくださるイエス・キリスト」であるという結論に至りました。

そして、この世に思索のお庭があるように、神の世界にもお庭があるのです。神様の憐れみと恵によって神の大庭に入らせて頂けるのです。そこは永遠に存在する恵と聖さに満ちた場所です。もし、祈り、神に立ち返り、神と和解するならば、その大庭に入らせていただけます。

あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、
あなたの大庭に住む人はさいわいである。
われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の
恵みによって飽くことができる。
詩篇65:4