聖書の理解
最近、旧約聖書をずっと読んでいるのですが、より深く聖書を理解するにはイスラエルの文化や歴史などを総合的な知識が必要だと思わされています。レビ記では幕屋のことが多く書かれていますが、これなどはGoogleの画像検索で幕屋を調べたりしています。
また、Youtubeでイスラエルにある幕屋を再現した観光地の動画などを見ると理解がかなり進みます。正直文化も歴史も知らない状態で、テキスト情報だけ頭の中に幕屋を描くことは不可能です。
原語で理解
さらに、聖書の原語で理解することも正しい理解につながります。旧約聖書はヘブライ語とアラム語、新約聖書はギリシャ語です。例えば、聖書に書かれている「へりくだり」という言葉を一つとっても、原語では「鳥が自分の羽を折る」という意味があるそうです。それを知るのと知らないとでは「へりくだり」ひとつとっても理解が全然違います。
また新約聖書にはる「霊的な礼拝」の霊的とはギリシャ語の原語では「ロギコス」で「御言に根差した」という意味があるそうです。霊的と聞くと超自然的な体験や力をイメージしそうになりますが、実際は聖書そのものなのです。
中東の気候
さらに聖書の言は中東の気候や文化や歴史の影響を強く受けているので、すっと御言が入ってこないこともあります。具体的に書いてみます。以前のブログにも書きましたが、僕は毎朝こどもを保育園に連れて行くときに必ずこの御言をこどもに告白しています。
わたしは、かわいた地に水を注ぎ、
干からびた地に流れをそそぎ、
わが霊をあなたの子らにそそぎ、
わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。
こうして、彼らは水の中の草のように、
流れのほとりの柳のように、生え育つ。
イザヤ44:3-4
「麗しきぶどう畑よ、このことを歌え。
主なるわたしはこれを守り、
常に水をそそぎ、
夜も昼も守って、そこなう者のないようにする。
イザヤ27:2-3
夏場の暑い日に自転車に乗せて宣言する時は、現状と御言の情景が近しいのでイメージできていました。しかし、最近は寒波が襲ってきていてこの御言を宣言するのは少し季節外れのような気がしています。
御言は知性でも実を結ぶべき
中東地方は日本とは全くことなり、荒野がいたるところにあり、水が十分でなく、少しでも荒野で迷えば死を意味するというような地域です。ひるがえって、日本は水の国と言われており、安全と水はただで手に入るとも言われています。そういう地域では、荒野や乾きといった表現が体感しにくいという障壁があると感じています。
もちろん、御言は霊で読んで、霊で感じるものであり、そういったものは不要だという意見もあるかもしれません。確かに深いレイヤーにおいては霊で理解されるものです。しかし、御言は知性でも実を結ぶべきだと思っているので、なんとかならないものかと思っています。まだ答えはありませんが、これは日本における福音宣教にも通じる気がしているので祈りつつ考えたいと思っています。