1395_「主に委ねる」という都合のいい言葉

起床に関して

年末は聖書通読達成のために6時半起床が習慣化されつつあったのですが、インフルエンザに罹患してからこの習慣が完全に振り出しに戻ってしまいました。朝の黄金の時間を主に捧げたいという思いは持っていてもそれをなかなか実行に移せない自分があります。

たとえば、僕が寝る前に「明日は主のために黄金の時間を捧げられるように早く起きれますように」と祈ったとします。しかし、翌日はいつもと同じように惰眠をむさぼり起床できませんでした。この場合、祈りはきかれなかったことになるのでしょうか?

自由意志がある

それは全く違います。主により頼むべきことは多くありますが、それほど多くありません。なぜなら、人間には自由意志があるからです。起床できなかったのは祈りがきかれなかったわけではありません。ただたんに、僕が起きる気がなっただけなのです。

なぜなら、僕はたまに出張に行く必要がある日、5時半起床とかは普通にしているからです。なぜ、起床は主のためにはできなくて、仕事という責任のある場合のみできるのでしょうか?それは、仕事では起きる気があり、祈りのためには起きる気がないからにほかなりません。

主に委ねる

僕はよくこの罠に陥ります。しかし、もしかしたら、現代の多くのクリスチャンも同じかもしれません。自分の自由意志で任されている範囲の責任も「主に委ねる」という都合のいい言葉を使って実行しようとしないのです。

このことに関して、母教会の牧師先生がこのようなことを言っていました。

「礼拝前の祈祷で、『どうか礼拝できますように。』と祈る人がいますが、礼拝するかどうかを決めるのはあなた自身です。だから、『霊とまこととをもって主を礼拝します。』と宣言するのが正しい態度です。」

主のために早く起きる気がない

この先生の言葉に僕は完全に同意します。何度も書きますが人間には自由意志があります。その自由意志を使って何をするかは自分自身の責任です。とはいいつつも、確かに自由意志を持っている自分はあまりにも弱くて頼りなくて失敗だらけかもしれません。その中で主を選択し続けるという自由意志を働かせることは最低限必要です。

しかし、僕の場合、仕事であれば起床できるということを考えたら、僕自身が「その気になっていない」、もっと自身に対して厳しく書けば、そもそも「主のために早く起きる気がない」と言えると思います。

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