主の語り掛け
主の語り掛けはこういうものでした。もちろん、これは僕の主観です。自分がそう思い込んでいるだけなのかもしれませんが僕は主の語り掛けだと思いました。
「あなたは悔い改めから一歩踏み出しなさい。これまであなたは時々刻々と悔い改めることに専念してきた。しかし、あなたは私がいることを忘れてしまっている。わたしはあなたを罪から勝利させることができることを信じないのですか?わたしと共に歩みなさい。」
あなたがこわかった
それに対して僕はこのように思いました。
「私はあなたと共に歩んでいると思っていました。少なくとも共に歩みたいと思って取り組んできました。でもそれは自分の理解の範囲の中でのことだったと今知りました。僕はずっと祈りの中であなたと深い交わりをすることを忘れてしまっていたのです。」
「また正直に言います。僕はあなたと共に歩んでいると言いながら、あなたがこわかったのです。あなたに裁かれるのではないか?僕は正しく生きることができていないのではないか?という恐れがいつも心の中にありました。主よ。これが僕の真実の心でした。」
主に愛されている
僕は祈りの中で気づかないうちに縛られていたあらゆる鎖が砕け落ちるのを感じました。僕は実に多くの目に見えるものや言葉に縛られていのたのです。それらは僕から目に見えないものを信じさせる信仰から目をそらせていたのです。
僕は、心から「主に愛されている」と感じました。そして、確かにイエス様が心の中にいてくださっているということを思いました。
信仰生活はあまりにも自己啓発的
僕の信仰生活はあまりにも自己啓発的でした。自己改善のサイクルを回すために悔い改めることに重点をおき、主との愛の交わりを全くしていなかったのです。そういった信仰生活は正直まぁまぁうまくいきました。しかし、僕の霊的な命は少しずつなくなっていっていたのです。そしての行き着く先は、荒野荒地、乾いた大地、焼けた砂でした。
内なる僕の願望はずっと心のうちにあったにもかかわらず、肉によって覆われて隠されてしまっていたのです。そして、それを御言が解放してくれたように思います。
わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で/喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。
詩篇27:4-6