1141_自分に罪を犯していない人すら赦すことができないことがある

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主の祈り

先日教会で主の祈りを告白している時に思ったことがありました。

「わたしたちに罪を犯した者を赦しましたから、 わたしたちの犯した罪をお赦しください。」

いつもなんとなく告白していた祈りの言葉ですが、果たして日常生活を送る中で、誰かが僕に対して罪を犯す場面などあったのだろうかと思いました。そもそも、誰かが僕に対して罪を犯すということはどうことなのでしょうか。

自分に罪を犯す人とは?

例えば、誰かが僕の物を盗むとか、暴力をふるってくるなどが考えられます。しかし社会人になってから、そんなことをされたことは一度もないと記憶しています。また心の領域においても、誰かから言葉の暴力を振るわれたことも記憶にありません。

でも、この祈りをイエス様が弟子たちに教えられた時代のことを考えてみましょう。当時、ユダヤの民はローマ帝国の支配下にあったので、不当に財産を没収されることうや不当な暴力を受けることはざらにあったと推察されます。

現代においてはこの祈りは不要?

そんな状況になったら、相手を赦すことはかなり難しいと思います。誰だって一生懸命働いて少しずつ貯めた100万円が無慈悲にも没収されたら、冷静でいられないどころか相手を赦すことなどできないでしょう。しかし、イエス様は自分が神様に罪が赦されたように相手を赦すように教えています。

一方、現代の日本においては、蟹工船のような過酷な職場にいる以外は、ほとんど自分たちに対して罪を犯す人などいないのではないでしょうか?じゃあ、この祈りの言葉は意味のないものなのでしょうか?僕は別のことを思いました。

むしろもっと必要

それは、「自分に罪を犯していない人すら赦すことができないことがある」という非常に情けない状況です。日常生活において、決して相手が僕に対して罪を犯しているわけではないのに、ちょっと意見を否定されたり、ちょっと言い方がきつかったりしただけで腹が立って心の中に苦々しい思いを抱いてしまうことがあると思いました。

僕はそれ以前に、こういった祈りをしないといけないと思いました。

「僕は自分に罪を犯していない人すら赦すことができません。そんな僕をおゆるしください。しかし、今相手を赦す決心をします。相手を祝福する決心をします。どうかそれができる力と愛を与えてください。」

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