1048_「僕が自分が考えた。自分が準備した。自分が語った。」と言わせないようにするための神様のご配慮

説教の準備での葛藤

教会でCSなどの説教を準備する時に葛藤が起きることがあります。自分自身が祈りや聖書を読む中で教えられ、かつシェアすべきと聖霊の導きを感じた箇所を語る形式は特に問題ないのですが、聖書箇所が決まっている場合は葛藤することがあります。それにはいくつかの理由があります。

一つ目は該当聖書箇所に関して解説があるにはあるが、難解な箇所であるため、解説を読んでも自分の中で腑に落ちない場合です。イエス様のたとえ話にはわかりやすいものもあれば、難解なものもあります。自分自身が府に落ちていないのに語らないといけない状況になるのはかなりつらいです。

語りにくい内容

二つ目は自分自身ができていないのに語らなければいけない場合です。クリスチャンにとって感謝、賛美、悔い改めとうは比較的易しいと思います。しかし、誰かを完全に赦すことや自分自身を神様に明け渡すこと、一切を手放すことなどは簡単なことじゃありません。

もし、自分にはそれができていると思っていても意外にできていない場合が多いです。少なくとも僕には多いです。つまり、あることだけはしっかり自分の手で握っていて、それ以外のものだけを神様に捧げるという態度です。

語る資格はないと思わされること

そういったなかなか厳しい聖書箇所が説教の奉仕で回ってきた時は自分の肉は非常に苦しみます。しかし、それは神様に近づくチャンスにもなります。なぜなら、自分には語る資格がないと痛感しているからこそ、神様に近づき助けを求めて祈るからです。

実際を言えば、これまでの自分の説教の準備はほとんどがそうだったように思います。むしろ、自分では今回はいける!と思って準備していたら、御言と聖霊の取り扱いを受ける中で、自分にはだんだん語る資格はないと思わされて、神様に対して畏れを抱くということが多かったように思います。

主ご自身が語られる

そう考えると、すべては神様の恵みによってさせていただいているのだと思います。それはきっと「僕が自分が考えた。自分が準備した。自分が語った。」と言わせないようにするための神様のご配慮なのだと思います。特に僕はお調子者なので高慢にならないようにそのようにされているのだと思います。

今週はCSの説教がありますが、与えられた聖書箇所から神様の御心が語れるように祈りたいと思います。

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