0314_自分に関する未知のバグや脆弱性

Contents

なかなか未知のバグには気づけない

世の中で動いているシステムには、大規模小規模かかわらず、有償無償かかわらず、ほぼ確実に未知のバグや脆弱性が隠されています。どれだけテストにテストを重ねてもバグや脆弱性を0にした状態で世に送り出すことは不可能なので、未知のバグに関しては運用しながら、走らせながら、都度対応することがほとんどです。

世の中に広く流通しているオープンソースのシステム(ブログやECサイト)でも致命的な脆弱性、例えば、クレカ情報が盗めるなどが発見されることがしばしばあり、その度に、修正パッチを適用してその場をしのいでいるような状況です。システムによってはバグ報告や脆弱性報告をすると高額懸賞金がもらえる場合もあり、未知のバグや脆弱性発見がどれほど重要視されているかがわかります。もし、未知のバグや脆弱性を完全に見つけるツールがあれば、みんなのどから手が出るほどほしがるでしょう。

他人のバグ見て、自分のバグに気づかず

個人的に最近、強く感じるのは、自分に関する未知のバグになかなか気づけないということです。聖書にはこのように明確に書かれています。

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 7:4自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
マタイ7:3

他人の目に塵があるのはよく見えるのに、自分の目には塵どころか家を建てる際に使われる梁のような巨木があるにもかからわず、それに気づけないというのです。人のことはあーだこーだ言う場合、自分はそのことに関しては「できている」と思いがちです。しかし、それは自分をうまくごまかしてできていると思えているだけで、別の視点から、別の角度から見た場合、「できていない」場合がほとんどだと思います。

あるバグはないけど、他のバグはある

何かができているから、その一点において、自分にゆるしを与えるというのは人間のさがだと思います。こちらも聖書にこのように書かれています。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
マタイ23:23-24

当時の宗教指導者たちは、確かに律法に定められたことを行っており、それで自分は十分「できている」と思っていました。しかし、神様の目から見た場合、まだ見逃していることがあったのです。汚れたものであるぶよとらくだのうちで、ぶよは体内に入れていないけれども、実際は気づかずにらくだは体内に入れてしまっていたのです。

僕自身にも、気づかずに神様に喜ばれないものを体内に入れいている(見たり、聞いたり、思ったり)ので、それを示して頂きたいと思います。