祭に関する種々の規定
現在は在宅時はレビ記を通読しています。いずれも何度も読んだことがありますが、毎回学びが得られます。レビ記には祭り(礼拝)の種類が細かく書かれています。祭といっても燔祭、素祭、罪祭、愆祭、任職祭、酬恩祭など目的によって儀式の内容は変わります。
つまり、礼拝にも喜びを表したり、感謝を表したり、悔い改めを表したり、いろいろあるということです。しかし、いずれも共通しているのは犠牲が必要だということです。
あるものは雄牛が必要であったり、雄羊が必要であったり、時には種入れぬパンが必要であったりします。そして、祭に携われるのはモーセの実兄であるアロンを筆頭にレビ人だけに限定されていました。
神の前に出るのに犠牲が必要か?
今回読んで学んだことの一つ目は神の前に出るには犠牲が必要だということです。確かに2000年前にイエス様が十字架で尊いご自身をお捧げになったため、神の前に出るための犠牲はすでに捧げられました。
では、現代を生きる僕たちが何の犠牲もなしに神様の前に出ていいのでしょうか?聖書にはこのように書かれています。
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
ローマ人への手紙 12:1-2
礼拝のためには犠牲が必要です。それは自分自身を神様に捧げるということです。
注ぎ油が必要
次に祭に携わるレビ人は注ぎ油が必要でした。それは現代を生きる僕たちも聖霊の油注ぎなしに神様の前に奉仕することはできないことを現わしています。イエス様はヨハネによる福音書で「わたしから離れては何一つできない」とおっしゃいました。
神様の御心に沿った日常生活を送ることですら、イエス様から離れては何一つできません。できていると思っているのは自分の心のとおりにできているだけであって、神様の御心に沿うためにはイエス様からひと時も離れることはできません。もし、そうであるならば、礼拝ではなお聖霊の油注ぎがなければできるはずがないと教えられました。
クリスチャンに求められているもの
ある牧師先生が言っていました。世の中の人はクリスチャンに知識や経験を求めていない。世の中はそれらにあふれている。彼らが内なる心で求めているのはクリスチャンの祈りや油注ぎから現れる神様のご臨在であり栄光であると。
そのことを肝に銘じて日常生活、教会生活をしていきたいです。