愛がなければ、一切は無益
聖書には別に愛がなくても福音的な働きや善行が行えるということが書かれています。特に第一コリント13章にはその詳細が細かく書かれています。たとえ、福音的な働きをしたとしても、全財産を誰かに施したとしても、あるいは、自分の命を差し出したとしても、愛がなければ、一切は無益と書いているのです。つまり意味がない。やる価値がないということです。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
コリントⅠ13:1-3
愛の源
そうなると愛が最優先事項になります。人は往々にして愛よりも「行い」を優先してしまう弱さを持っているのではないかと感じています。では、その愛の源泉はどこにあるのでしょうか。ヨハネの福音書では、ぶどうの木と枝に例えて、人は神に繋がっていて、神もまた私たちに繋がってくださっているのでなければ何もできないと書かれています。
つまり、神に繋がることによって、神の愛の養分が木の幹から枝葉に流れていって、愛が原動力となって福音の働きや善行が行えることなんだと思います。
愛がなくてもできてしまうということ
ただ個人的におそろしいと思うことは、神の愛を原動力にしなくても福音の働きができてしまうということです。愛は必ず行いに現れるものです。しかし、その現れそのものは必ずしも愛が原動力になっていないことがありうるということです。
もしかしたら、僕自身が行っている教会の働きやあらゆる場所での行おうとしている善行も価値がない可能性があるということです。もちろん、目に見えるところの受け手にとっては意味のある働きだと思われることでしょう。しかし、神の目から見た時に無価値だと思われることがあるというのです。
最も大切なこと
ヤコブの手紙には行いのない信仰は意味がないと書いてあります。信仰には行いが伴う以上、行いは絶対に見逃せないものです。しかし、それ以上に、愛が最も重要なのです。
愛とは、神のとの交わりの中で育まれるものです。ヨハネの手紙のぶどうの木と枝のたとえ話のように、親密な関係の中で神の愛を受けることができます。日々の生活や教会での奉仕などで時間を神様にコミットできることは素晴らしいことです。しかし、そのコミットできる恵みに満足してしまって、神との個人的な交わりがおろそかになってしまっていないか内省しないといけないと思いました。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
コリントⅠ13:4-7