1452_福音派の教会は古典的な聖歌で賛美し、ペンテコステ派はワーシップソングで賛美する

本質的なところにおいては同じ

何度もブログで書いていますが、僕は今は福音派の教会に行っていますが、母教会はペンテコステ派でした。これらは、キリスト教信仰における「信仰によって救われる」や「福音宣教をする」や「キリストの再臨を待ち望む」など本質的なところにおいては同じです。ただ、重視しているところや教会で語られる内容が違うと感じています。

その他、福音派の教会では比較的、古典的な賛美で主を褒め称える傾向が強いですが、ペンテコステ派はコンテンポラリーな賛美で主を賛美する傾向があります。僕は別に古典的な賛美が現代遅れて、コンテンポラリーなワーシップが優れているとも思いません。

真実な心

しかし、思っていることがあります。それは「嘘偽りのない真実な心でその賛美を主に捧げられるか?」ということです。古典的な聖歌は骨太の信仰者たちが作った曲が多く、信仰がないと賛美できないものも多くあります。具体的に言えば、「すべてを捨てて主に従いまつらん~」という賛美がありますが、僕は、未だかつてこの賛美を心からできたためしがありません。

なぜなら、すべてを捧げることができていないからです。だから、「主よ、私はこの賛美であなたを褒め称える資格はありません。主よ、お許しください。」と悔い改めて賛美するほかありません。実際、古典的な聖歌はこの類の歌詞の曲が多いです。ようは、信仰がないと賛美できない曲なのです。

心を注ぎだす

僕はこう考えています。「もし、心からそう思って賛美できないなら、それは真実な心で主を賛美しているのではない。」ということです。これは礼拝において非常に大切です。なぜなら、主は真実な心を求められるからです。その点においては、ペンテコステ派のワーシップソングは臭い物に蓋をすることせずに嘘偽りのない心を主の前に注ぎだす礼拝姿勢があります。

もちろん、僕はここで古典的な聖歌では真実な賛美ができないと言っているわけではありません。しかし、心を注ぎだすという点においてはワーシップソングのほうが礼拝に適してると思います。

どのような礼拝であれ

「それはお前の感情だろ!」と言われるかもしれませんが、僕は礼拝中に主に触れられて、心が解かされて砕かれて涙を流すという体験を重ねて主と共に歩んできました。むしろ、それがあったからこそ今があるとさえ思っています。たとえ、礼拝でワーシップソングがなかったとしても、どのような礼拝であれ、嘘偽りのない真実な心を主に捧げ続けたいです。

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