宝のあるところに心がある
聖書にはこのような言葉があります。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。
マタイ 6:21
この宝のある所というのは、なかなか自分ではわからないものです。客観的に誰かに指摘されたり、聖書を読んでいて示されたり、あるいは祈りの中で示されたりしないと自分ではわからないものです。
たとえ、自分は敬虔な生活を送っており、主を第一にしていると思っていても、実は教会の人の目を気にしていてそれを第一にしているかもしれません。僕自身、自分が主を第一にできていると思っている時に限って、心が他のところにあったことが何度もあります。聖書にあるように「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」の言葉につきます。往々にして、自分の心はあらぬところにあるのです。
宝のあるところとは?
宝のあるところとは、つまるところ、人間の欲望そのものです。欲望になりうるものを分解すると、富、快楽、名誉、栄光などがあると思います。さらに分解すると、お金、資産、恋人、愛人、昇進、地位などでしょう。
それ自体は悪いものではありません。しかし、人間は二人の主人に仕えることはできないと聖書にある以上、これらは神から僕たちを引き離す可能性があるものであることを自覚しないといけないと思いました。
そうしないと、気が付かない間に、富に頼って主に頼らなくなったり、名誉によって高慢になったり、快楽によって神にある喜びを忘れてしまうかもしれないからです。
宝を際限なく求める
きっと人間の欲望に際限がないことは、誰もが認めることだと思います。資本主義や自由経済主義がそれを体現しています。ある人は人が成長するために、向上するために、欲望があると説明するかもしれません。それはきっと正しいと思います。
しかし、際限のない欲望、今の欲望を満たすためには環境を破壊することも、人を押しのけることも、時には戦争を始めることもいとわないと思うほどの欲望が人間にはあるということです。なぜそこまでして欲望を満たそうとするかというと、人間の心は何をも満たしえない、神様にしか満たせない空間が存在しているからです。
パスカルはこのようにゆっています。
「人の心には神によってしか埋めることのできない真空がある。」
最近、僕自身は、この空間を他のもので埋めようとしています。主のところにすべてのものがあるということを忘れてしまっているのです。忘れているというより信仰がないだけです。これは非常に愚かな状態です。悔い改めて、主のところにすべての満たし、楽しみ、喜び、命があることを見出していきたいです。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
詩篇16:11