禁欲的に見える
2023年をどう生きるかを祈ったり考えたりする中で、こういった言葉が浮かんできました。「イエス・キリストにすべての満たしがあるのであれば、この世のものに心が惹かれることはなくなる。」これは僕にとっては仮説ですが、ほかのクリスチャンたちは既に実体験として実証しているかもしれません。
実際に周りにいるクリスチャンを見ると衣食住足れりで本当に心から満足されていて、さらに集会や祈ること、周りの人のために祈ることを生きがいとしている人がたくさんいます。
実はこの仮説は既に論理的に分析もされて、実証されています。
マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でクリスチャン精神は勤勉で禁欲的であると書いています。よく働くが、無駄に消費はしない。それが恒久的な資本につながり、近代の資本主義社会の形成につながったというのです。
一時的な満たし
僕はそんな生き方をして楽しいの?と思ったこともあります。外からみるとつまらない生き方のように見えたからです。しかし、自分もそこそこ年をとってきて今更ながらわかったことは人間の肉の欲、目の欲、持ち物の誇りには際限がなく、さらに過ぎ去るということです。
そういった世にあるものを求めつつ、神様も求めているという二心の状態から解放されたいと思っています。それは禁欲的なものでもなく、「せよ」「やれ」と言われてするものではなく、心からあふれるままに生きる生き方です。
僕自身は自分の意志が非常に弱いということを知っています。だから、僕にできることは、主イエス・キリストを求めるかどうかの選択をすることしかできません。しかし、これまでの自分は往々にして、イエス様も求めるが、世にあるものも求めてしまっていたのです。
本当の満たし
もし、主イエス・キリストだけを求め、本当に心がキリストで満たされる時に、この世にあるものに心が惹かれることはなくなると思います。それはこの世のものでは決して満たされることのない深いところのレイヤーで想像もできないような満たしがあるのだと信じています。
ついつい、目先の欲に惹かれてしまいます。しかし、それらは一時的なものであり、刹那的なものであり、過ぎ去るものです。そういったものに時間やお金を使うことは決して悪いことではないと思いますが、どうせなら、できるかぎり永遠に残るもののために時間やお金を使いたいなと思っています。
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
テモテⅡ2:8