教会は多種多様
日本の教会は一見みんな同じように見えますが、実は多様性に満ちています。集まる人も多種多様であり、活動も様々です。確かにどこの教会も福音宣教という大目標を掲げて活動していますが、それを実現するための具体的な方法や手段は各教会によって違いがあります。
ある教会は慈善活動やボランティアを通して福音宣教を支える柱としている場合もあります。またある教会は音楽、賛美を通して福音宣教を推し進めている場合もあります。ここで一つ考えたいことが適材適所の問題です。
主がマッチングしてくださっている
大前提として主がクリスチャン一人ひとりをその所属するべき教会に置いてくださっていることに間違いはありません。もし、その前提が崩れてしまったら「どの教会に行ってもいいやん」となってしまい、自分勝手で自分の都合のよい信仰生活を歩む結果になってしまいます。そうなったら、教会において神様が望んでおられることをせずに、自分のやりたいことをする自己実現的な傾向が強くなってしまいます。
何度も書きますが、主が仕えるべき教会を与えてくださっています。主が一人ひとりのクリスチャンと仕えるべき教会をマッチングしてくださっているのです。しかし、そのマッチングは必ずしも、その教会の活動と自分のスキルや能力を存分に生かせるかどうかにはかかっていません。
自分が生かされていないのではないか?
たとえば、音楽の能力は高いけれど教会がそういったことに重点を置いていなければその能力は教会で生かされません。また外国語が堪能であっても教会として外国人を受け入れる体制がなければその能力は教会で生かされない場合があります。
主のマッチングは完璧です。しかし、人間の目から見た場合、自分が生かされていないのではないか?という気持ちが湧いてくることも、もしかしたらあるかもしれません。しかし、僕はそれがその人にって訓練の時だと思っています。
能力によらず
そのヒントはモーセの生涯にあります。モーセはエジプトの王子で能力の高い人でしたが、彼は40年もの間、その能力をほとんど生かせない羊飼いとしての生活をしたのです。彼の能力や知識や知恵が存分に生かされたのは80歳を過ぎてから出エジプトするシーズンになってからなのです。
彼はその40年の間に、この聖書の言葉を学び訓練されたのだと思います。
ゼカリヤ書 4:6
すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。













