とげの人
僕には僕にとってとげだと思っている人がいます。僕は何度もこのとげだと思っている人を遠ざけてくださいと主に祈りましたが、その度に、「ゆるす」という言葉を与えられて、実際に受け入れるということをしてきました。この過程はとてもつらかったです。それでしばらくは問題がなかったのですが、再度、前回起きたような問題が起こり、また遠ざけてくださいという祈りをしている始末です。
ちょうど、半年前くらいにもブログにこのことを書きました。当時は完全に僕のミスだったので、怒られて当然だと思っていました。ただ今回は僕が悪いわけではないので、なんとも虚しい理不尽さしか感じないのです。
0492_主がおっしゃるなら
0493_不適材を不適所に置く主
クリスチャンにとってゆるすということ
クリスチャンとして時々つらいと思うのが、赦したくない人をゆるすように求められる時です。聖書にあるとおり、イエス様は自分に罵声を浴びせ、暴力を振るう群衆たちを受け入れて愛し続けられました。ですので、キリストの御足に従っていくクリスチャンも当然同じ基準が求められます。
もちろん、元来の人間にはそういったことは絶対にできないので、主により頼んで主から愛を頂かなければなりません。もし心から「イエス様の愛ですべての人を愛せますように」と祈るならば、その祈りはきっと聞かれるでしょう。なぜなら、それは聖書にも書いてる御心に沿った祈りだからです。僕もその体験はこれまで何度もしてきました。
それを求めたいとも思わない
僕はそれをすべきだと頭ではわかっています。しかし、今はその人を愛せるようになりたいとも思わないのです。その人に言われた言葉に囚われてしまっています。そもそも、今回、僕が赦したとしても、同じことは前回や今回と同じようにおき続けることが予想されます。
クリスチャンとしてつらいのが、イエス様は7を70倍する回数までその人を許し続けなさいとおっしゃったことです。現時点で、しばらくは僕には「赦せる心が与えられるよう」にとは祈れなさそうです。その人は皮肉属性、罵声属性、高圧属性があるので、今は、スマホの着信にその人の名前が出るのを見るだけで怖くなってしまいます。
時がくるように
赦せない間はそのことに囚われる上、認知も奪われるのでいいことは何一つありません。しかし、時間が解決してくれるというのもあります。「すべてのことには時がある」という聖書の言葉を今回の件に適用するのであれば、今はこのように祈るしかありません。
「今、僕はあの人を赦せるように、あなたの愛が与えられるようにとは思いません。しかし、時間をかけて人を造り変えるのもあなたのわざです。どうか、僕の頑なな心をとかし、まずは受け入れることができるようにしてください。」