0689_信仰歴が長いだけの残念なクリスチャン

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ヤコブの生涯

皆さんは創世記に出てくるヤコブの生涯を見てどのような感想を持つでしょうか?次男として生まれたのに、長男の特権を与えられてずるい。ずる賢くて卑怯だ。多くの物質的な繁栄を享受して羨ましい。最後のエサウとヤコブとの和解の場面は涙なしに読めない。などなど、なかなか濃厚な人生を歩んでいます。

聖書に書いてある彼の結末は素晴らしいものでしたが、彼の人生は非常に試練の多い過酷なものでした。

造り変えられる過程

まず、彼は自分の撒いた種により故郷を追われます。一人荒野を彷徨うことを余儀なくされました。野生の獣がいる荒野で、冷たい石を枕にして寝なければならなかったのです。そこで彼は一人になり神を知る体験をします。彼は一人になった時に神の栄光を見る体験をしたのです。そこから彼の内面が作り変えられる主のわざが始まりました。

主は彼の手のわざを祝福されましたが、決して順風満帆じゃありませんでした。彼はしもべとして主人に何年も仕えたにもかかわらず、彼は何度も報酬を帰られ続けたのです。理不尽という言葉でしか表現できないようなことにも何度も直面しましたが、彼はしもべとして仕え続けたのです。

もし訓練がなかったら

もし、彼が故郷にいて両親であるイサクやリベカのもとで、ぬくぬくと甘やかされて育っていたならば、きっと自分の内面が造り変えられることもなく、残念な大人、やばい大人になっていたに違いません。彼には性格的に造り変えられないといけない性質があったからです。

そして、クライマックスのシーン。彼が騙した相手兄であるエサウと再会する場面の前で彼は世を徹して神と格闘をします。それは祈りの格闘です。そこで彼は神に向き合い、徹底的にへりくだり、主にすべてを委ねた時に、主はエサウとの再会を祝福に変えてくださったのです。

自分も造り変えられたい

僕はこの物語をみて、自分自身を思います。なぜなら、僕自身性格に難があり、砕かれないといけない肉の性質があるのを知っているからです。今はこの性格的な問題や砕かれないといけない肉を神の前に差し出し、煮るなり、焼くなりしてほしいと思っています。

なぜなら、そういったものが砕かれないと、信仰歴が長いだけの残念なクリスチャンや信仰歴が長いだけのやばいクリスチャンになってしまうかもしれないと危機感を抱いているからです。

されど主よ、あなたはわれわれの父です。
われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。
われわれはみな、み手のわざです。
ヤコブ64:8

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