たとえることについて
聖書の御言や神様ご自身のことをより理解しやすくするために身近なものに例えられたりすることがあります。例えば難解な三位一体の教理も色々な例えで説明がなされていますし、イエス様ご自身も多くの例話で群衆に語りかけました。
イエス様がされるたとえ話に間違いはありませんが、人間のたとえ話は完全に真実を現しているとは限りません。容易に理解できているつもりでも実は真実とはずれた理解をしているかもしれないのです。
今日は僕自身が間違って例えて理解してしまっていたことが発覚しましたので、それを備忘録として書いておこうと思います。
間違ったたとえ
僕はこれまで人間と神様との関係をインターネットの技術に置き換えて理解していました。インターネットの世界にはクライアントとサーバーと呼ばれるもので成り立っています。クライアントは皆さんお使いのスマホやPCなどです。クライアントであるスマホでYoutubeを開くとYoutubeのサーバーにつながり様々な動画が表示されるという仕組みです。これはクライアントがサーバーにリクエストして、サーバーがレスポンスを返すという一連の流れで行われています。
僕は長らく人間がクライアントで神様がサーバーであると理解していました。つまり、人間が神様に祈ることがリクエストであり、それに答えてレスポンスをするのが神様というわけです。
一見正しく見えるが
確かに聖書には「上にあるものを求めなさい」や「あなたがたの願い求めるところを神に申し上げるがよい」との言葉があり、一見、正しい例えに見えます。しかし、今日、かなり致命的な間違いをしていることにようやく気づきました。
クライアントができることは原則リクエストだけです。基本的には「ください」しか言えないのです。極端にいうと自分では何もできないので「クレクレ」というようなことしかできないのです。
しかし、人間と神様との関係はクライアントとサーバーのように物理的には離れているが論理的にはつながっているような関係ではありません。なぜなら、聖霊なる神が人間の心のうちに住んでくださるからです。聖霊に満たされる時に「クレクレ」という存在ではなく、満たされた状態になるのです。それは乾いているから満たしてくれの状態ではなくて、泉が湧き上がっている状態です。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」
ヨハネ4:14
本当の正しい関係
その状態ではじめて人間は神が霊であるように、聖なる霊で満たされ、神に仕える(サーブ)存在としてサーバーになれるのだと思います。人間側が神様に対して「何が必要でしょうか?何をすればよろしいでしょうか?」とお聞きし、神様からのリクエスト(祈りの答えや御言)に対して従順にレスポンスを返すのです。
こう書くとすごく当たり前のことなのですが、間違って理解しているととんでもない信仰になるので気をつけないといけないと思いました。