主を知ることこそが信仰のはじまり
昨日は、赤ちゃんが死ぬ可能性が高いと言われている状況の中でも、主はいつでも癒すことができるお方であるということを書きました。なぜクリスチャンはそう思えるのでしょうか。それは主について知っているのではなくて、主ご自身を知ってるからです。
聖書には主がなされた多くの奇跡が記載されています。病人を癒し、死人をよみがえらせることさえされました。その知識をもっていれば「主は癒してくださる」という信仰が沸き起こるのでしょうか。僕はそうではないと思います。主について知ることに信仰は関係ありません。主を知ることこそが信仰のはじまりなのです。
最も大きな奇跡
ともすれば、人間には、そういった目に見える癒しや復活の奇跡に注目がいきがちです。しかし、最も大きな奇跡はイエス様の罪の赦しのほかありません。イエス様の十字架における罪の赦しこそがこの世界で最も偉大な奇跡です。そして、それは誰でも体験することができるのです。何度も書くように、クリスチャンが信仰を持つ理由は聖書の知識があるからではありません。イエス様ご自身を知ったからです。
僕はこう考えます。イエス様は僕の罪を赦してくださった。そして、僕を造り変えてくださった。今もなお造り変え続けてくださっている。だからこそ主には癒すことくらい簡単にできると思えるのです。
魂の救いなしに信仰はあり得ない
だから、当然のことですが、魂の救いなしに信仰はあり得ません。魂が救われていないのに聖書の言葉を信じるということはできないと思います。だからこそ、主が与えてくださった魂の救いの重みと尊さをこれまで以上に実感するようになっています。それがはじめであり、それがこの地上での終わりに続くのです。
そして、この地上で終わることはありません。魂の救いこそが永遠に続きます。それが永遠の希望です。クリスチャンは「天国はあるのか?ないのか?行ってみないとわからない」などとは思いません。なぜなら、魂の救いが永遠に続くものであるということを知っているからです。それが天に続くのはごく自然なこととしてとらえるからです。
今日もあの日の感動に包まれる
また、「自分が死んだらどうなるのか?天国に行けるのだろうか?」という不安も心配も恐れもありません。なぜなら、主の救いは確かに変わることがないことを知っているからです。それは、今も救いの力が自身の身に現れ続けているからです。
救いは洗礼を受けておわりではありません。今日もあの日の感動に包まれる、永遠に続くものなのです。