0788_救われたのち成長するか否かは神を選び続けることができるかにかかっている

信仰生活のスタート

人はイエス様の救いを心に信じて義とされて口に告白した時に救われます。それに伴う儀式として洗礼式がありますが、救いに至るのは人それぞれです。ある人は洗礼を受ける前に礼拝の中で深くイエス様に出会う体験をされる方もいます。ある方は洗礼を受けてからそういった体験をする方もいらっしゃいます。あるいは、教会に来ずとも聖書から神様を見出し救いに与る方もおられます。

信仰のスタートに至るプロセスは神様の導きにより人それぞれです。しかし、信仰生活をスタートしてからは、確かにそれぞれに神様の導きがありますが、成長するために必要な共通の真理があるのも事実です。

スタートしたのち

もし、洗礼を受けてそれで満足していたら、あっという間に世の中の引力に引っ張られてしまうでしょう。神様から離れたとたんに昔の生き方に戻ってしまいます。よくクリスチャンの平均年齢は3年と言われています。それほど、一度救いに与ったとしても、神様と共に生きるのをあきらめる人が多いのです。

洗礼を受けて霊が救われたとしても、この世の影響下におり、この世と接点を持ちざるを得ません。ですので、日々、キリストの前に出て悔い改めて洗いを受ける必要があります。

信仰生活のプロセス

僕ももし今日「日々神様を選び続ける」ということができなければ、この世の影響を強く受けてしまい、生き方が全く聖書の基準から外れたものになってしまいます。ですので、非常に厳しいですが、「常に主を求めるか?」と「自分を求めるか?」の二択を迫られます。

しかし、もし恵みにより主を求めることができれば、主と繋がり続けることができます。その生き方こそがヨハネによる福音書のぶどうの枝のたとえ話です。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
ヨハネ15:5

朝の時間を主に捧げることを習慣化したい

選び続けることができれば全く問題がないのですが、問題は選び続けることが容易ではないということです。聖書に登場する多くの人物は朝に主の前に出る習慣をもっていました。またこれまで読んだ多くの信仰書も朝の時間に主の前に出るということを教えています。

これが今の僕には習慣化できていません。打率3割くらいで、朝、主の前に出て祈ることもあれば、寝坊して出れないことがあるのです。今年は残り半分になりましたが、何とかして朝の時間を主にお捧げする習慣を身に着けたいと思います。

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