0909_変なことをいう牧師先生の説教を聞いて思ったこと

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外部の牧師先生が独特だった

先日教会に外部の牧師先生が来られていたのですが、かなり独特な考えを持っておられる方で聴いているのがつらく感じることがありました。もちろん、牧師先生とは神が立てた器であり僕みたいな平信徒が牧師先生が語ることにとやかく言う資格は一切ありません。

ただ、すごくつらかったのでどうしたものかと祈りつつ聴いていたら、神様が「あなたは私に従ってきなさい」という声が聞こえました。ですので、この牧師先生のことはとやかく言わず僕はイエス様に従おうと決めて心を落ち着けました。

僕は家に帰ってそのことを嫁さんには言わなかったのですが、嫁さんから「今日の先生だいぶ変わっているよね」と言うのを聞いて僕だけじゃないことがわかりました。また、その日は家族で別の信徒の方の家に遊びに行く予定にしていました。そこを訪れるとそこの信徒の方も「今日の説教はちょっと変わっていたね」と言っていたので、安堵したわけです。

一体何を語っていたのか?

その先生が伝えていたことはこのようなものでした。「聖書に書いてあることは信じるならば、既にそのとおりになった」ということです。別にそれは特に違和感を感じることではないと思います。しかし、その先生が語っていたのは「イザヤ書53章でイエス様が人類の病を既に負ってくださった」と書いてあるので、それを信じれば病気にはならないとのことでした。逆に病気になるとはつまり。。ということです。

さらに、過ぎ越しの際に鴨居に血を塗った家はもれなく救われたという例を出して、たとえ、その家でDVが行われていたとしてもその人は救われたということを強調されていました。だから、たとえ、今罪深い生活をしていても、信じるならば救われるということです。具体的には罪を犯している最中であっても御言を宣言すればいいというものでした。

救われたのちも罪にしがみつくのか

書くのが非常に難しいのですが、この先生が言っていたことを要約すると「信じれば既に救われているので悔い改める必要はない」ということでした。「もちろん、時には悔い改めたほうがいい」というよくわからないことも言っていました。

上述した過ぎ越しの例は確かにDVが行われていても救われたかもしれません。しかし、救われてなお罪深い生活をしていることを神様は望んでもおられないし、それは救われた者も望まないことです。

たとえ、過ぎ越しの際にDVしていても救われたとしても、出エジプトしたあともなおDVしていたら滅ぼされたと思うのです。約束の地に入れたのは次の世代とヨシュアとカレブだけであったように、出エジプトした世代の大部分は罪深さのゆえに荒野で滅んでしまったのです。

いましめを守りたい

だから、僕が思うのは、確かにイエス様はまだ僕が罪人の時に十字架にかかってくださいました。それを信じる時に確かに罪が赦されます。しかし、クリスチャン生活の醍醐味は罪が赦されて終わりじゃなくて、自分が変わり続けるということです。

救われたのち(出エジプトしたのち)は神様に喜ばれる生き方をするために罪深い生活から離れたいと思うようになるものです。こういうことを書くと律法主義だと思われるかもしれないですが、イエス様が何度もおっしゃったのは「私を愛する者は私の戒めを守る」ということです。

かといって当然、僕が全く罪なく生活できているわけではありません。しかし、「私を愛する者は私の戒めを守る」という御言と向き合い続けて神が聖いお方であるように自分もそれに少しでも近づきたいと思います。

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