世の中の影響を色濃く受けている
日常生活の些細なことや人生における様々なことにおいて、意外に人からの意見や考えに影響を受けているものです。クリスチャンであれば聖書の影響を強く受けていると思いきや、実際は世の中の影響を色濃く受けている場合が多いです。
これは自分を見てそう思います。誰かの意見やSNSの情報、インフルエンサーの言っていたこと、あるいは世の中全体の価値観などが知らないうちに自分の内側にしみ込んでいきます。聖書を開けばいいのに、スマホを開きます。目を閉じて祈ればいいのに目を開けてスマホを見ます。これが今の僕の状態です。
御言を知っている
誰かの意見を必要としてんくても、クリスチャンは聖書に神の御心が書かれていることを知っています。それはまず神の国と神の義とを求めることです。これはクリスチャンであれば耳にタコができるほど聞いてきた御言ですが、人間の意志において持続的に行うのが非常に難しい御言であると思います。
例えば一時的に、あるいは一瞬の意思決定において神第一をするのは簡単かもしれません。しかし、多くの場合において自分は神中心に生きていると思っていても、ある一点に関してだけそうしているだけで実際は自己中心に生きていることがあります。
御言ができていると思ったとしても
例えば、日曜日は聖別して教会に行き神第一とできていると思っていても、残りの6日間は自己第一となっているかもしれません。朝は祈って聖書を読んで神第一ができていたとしても夜は自分の時間だと決めて自分の好きなことをしているかもしれません。このように、自分の決めた範囲の中で神第一ができているに過ぎないのです。
こういうことを書くと個性がなくなるとか、自分の時間がなくなるとか、つまらない人生だとか、禁欲的だ、ストイックだとの声が聞こえてきそうです。僕もそう思ったことがあります。しかし、自分が救われた時のことや、この世では寄留者であり、旅人であることを考えると自分のために時間を使ってしまうと天のふるさとに帰った時に後悔しそうな気がしてならないのです。
あるべき状態
僕が切実に望んでいるのは嫌々そうするのではなくて、いつだって時間があれば主の御言に触れていたい、主と祈りの交わりをしたいと自発的に思える状態です。それには最初に書いた通り、人間の意志において持続的に行うのは難しいです。
だから、今日もこのように祈るしかありません。「イエス様、僕を憐れんでください。僕は自分を第一としていることを知っています。ある面においてはあなたを求めているかもしれませんが、多くの場合自分を優先させているのを知っています。どうかわたしを赦してください。そして、あなたの十字架の血潮によって私を聖別し、あなたを自発的に求めるしもべとして造り変えてください。」